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この項目では、死そのもの、並びに、死の文化的な位置付けなどについて説明しています。

法令や社会における人の死を意味する様々な用語については「死亡」をご覧ください。

権利の主体としての人の死については「人の終期」をご覧ください。

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死(し、英語: death)とは、

がなくなること[1]生命がなくなること[2]。生命が存在しない状態[2]

機能を果たさないこと、役に立たないこと[1](→#比喩的な用法を参照)

ただし、何をもって人間の死とするのか、その判定や定義は文化、時代、分野などにより様々である。(→「死亡の判定・定義」節を参照)。一旦は命が無いとされる状態になったが再び生きている状態に戻った場合、途中の「死」とされた状態を「仮死」や「仮死状態」という。伝統的に宗教哲学神学が死を扱ってきた。近年では、死生学法学法医学生物学等々も死に関係している。死の後ろに様々な言葉をつなげ、様々なニュアンスを表現している。例えば「死亡」「死去」「死没」などがある。


目次

1 人間の死

1.1 死亡の判定・定義

1.1.1 早すぎた埋葬


1.2 死因の種類と統計


2 臨死体験

3 宗教等における死の理解、死後の世界、言葉

3.1 古代エジプト

3.2 キリスト教

3.3 聖書

3.4 古代インド

3.5 日本の神道と仏教

3.5.1 その他の日本における死の表現


3.6 チベット

3.7 現世的な身分の上下を重視した人々

3.8 関連項目


4 死の受容

4.1 哲学と死の受容

4.2 死の人称による分類

4.3 死の受容についての研究

4.4 医療の場におけるスピリチュアルケア

4.5 文化・宗教による相異

4.5.1 関連項目



5 死についての名言

6 文学・芸術に描かれた死

7 死にまつわる様々なイメージ

7.1 色

7.2 数字

7.3 タロット

7.4 再生、安らぎのイメージ


8 生物学的な死の説明

8.1 単細胞生物等の死

8.2 多細胞生物の死

8.3 死の過程

8.3.1 細胞死

8.3.2 死体現象


8.4 関連項目


9 月別の死亡数

10 比喩的な用法

10.1 芸術作品の死


11 脚注

11.1 注釈

11.2 出典


12 参考文献

13 関連項目

14 外部リンク


人間の死
死亡の判定・定義

どのような状態になったことを「死」とするのかということについては、各地域の文化的伝統、ひとりひとりの心情、医療、法制度、倫理的観点などが相互に対立したり影響しあったりしており、複雑な様相を呈している。領域ごとに異なった見解があり、またひとつの領域でも様々な見解が対立している。たとえば今 仮に、医学的な見解ひとつに着目してみた場合でも、そこには様々な見解がありうる。養老孟司は次のように指摘した。生死の境目というのがどこかにきちんとあると思われているかもしれません。そして医者ならばそれがわかるはずだと思われているかも知れません。しかし、この定義は非常に難しいのです。というのも、「生きている」という状態の定義が出来ないと、この境目も定義できません。嘘のように思われるかも知れませんが、その定義は実はきちんと出来ていない[3][4]

ここではまず、多くの人々がとってきた見解を中心に、様々な見解を説明してゆく。
息が止まること
伝統的にと強く結びつけられて考えられてきた。よって、息が無くなった状態は死だと考えられてきた。
全身のさまざまなしるし
日本人では、従来(そして現在でも一部では)、が伸びる間は、まだ(ある意味で)命はまだあるのだ、と感じている人がいる。現在でも、自分の親や子供などを亡くした遺族などの中には、家族(の身体・遺体)の髪や爪が伸びているのを見て、まだ生きていると感じ、荼毘に付すのを拒む人がいる。
臨終の場における医師の恣意的な判断
前述のように実際には医師にとっても生と死の境目ははっきりしているわけではない。ただ、言葉として「生死」という言葉があり用いられている以上、「間に切れ目がある」という前提が置かれてしまっており、また社会の制度としては、どういう形にせよ、切れ目を決めることを求められることになり、実体とは関係なく、法律というものは言葉で組み立てられているので、死を(法的に、形式主義的に)規定することが可能で、死亡診断書の「死亡時刻」欄に何らかの時刻を書くことで「この時点から死だ」とすることに決められている[3]。よって(本当は境目ははっきりしていないのだが)医師は死亡診断書の「死亡時刻」欄を空欄にしておくことは許されず、(ともかくそれに書き込み)それによって「死の瞬間」が(形式的に)決定される。しかし、これは言葉の上で(恣意的に)決めたにすぎず、実体としての「死の瞬間」とは別のものである[3]
三兆候
医療で用いられる「死の三兆候」で、次の三つ。

自発呼吸の停止

心拍の停止

瞳孔が開く
数十年前に臓器移植の問題が出現するまで、こう考えておけば基本的には問題はなかった[3][5]
バイタルサイン
現代の医療の現場では、基本的にまずバイタルサインを見て生命の状態を判断している。つまり心拍数・呼吸数・血圧・体温である。そしてバイタルサインによる生命のしるしが無くなった段階で、瞳孔反射を調べ、それも無い場合に死亡したと判断する、というのがひとつの(よくある)方法である。[注 1]
臓器移植と線引き
死は実は定義困難なのだが、医療の現場では前述の「死の三兆候」を用いることで、ともかくそういう細かいことを考えずに済んでいた。ところが、臓器移植という問題が出てきた段階で考え込まざるを得なくなった[3][6]。米国などで医師の一部によってさかんに臓器移植の試みがなされるようになると、こうした医師はできるだけ新鮮な臓器を使いたいと考え、少しでも早く臓器を摘出したいと考えるようになった。そのほうが移植された人の予後は良好になる傾向があるからである。だが、新鮮な臓器のほうが予後が良好だからと言って、早めに臓器を取り去った後に、その人は手術時に「生きていた」とされ、臓器を取ったことによって「死んだ」状態になったと判断されると、その一連の行為は(一種の)「殺人」ということになってしまう。そこで、臓器移植をさかんに行おうとする医師たちなどが、意識の有無を生死の線引きに用いることを提唱し、「脳死」という概念を用いることを主張した。それによって、人工心肺などを用いることで、脳が死んだ状態でも、残りの臓器はかわらず生かしておき、その新鮮な状態の臓器を移植することができる、と考えるようになったのである。彼らは「脳の電気的活性の停止が意識の終わりを示す」と考え、「脳の電気的活性が止んだとき、人間は死んだのだ」と言うようになった[注 2]。「脳死」という考え方は、様々な激しい議論を生み、かなりの論争にもなった、現在では一時ほどは激しくはないが、今も様々な議論は続いている。現代では「脳死が死だ」というふうに捉える人もいるであろう[3][7]。だがこの「脳死」概念ですら線引きは様々で、(脳のどこが死んだ段階を「脳死」とするか意見は分かれ)、「脳の神経細胞が全部死んだ時点が脳死」とする人もいる[3][8]。しかし、仮にこの論法を取る場合でも、一体どの時点で神経細胞が全部死んだのか、実はわからない[3][9][注 3][注 4][注 5][注 6][注 7][注 8]脳死の議論は、一見したところではまるで科学の話のようでも、本当は問題となっているのは、社会が一致して決める「死」が問題の中心になっているようだと養老は指摘した[3][10]


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