横須賀海軍施設ドック
[Wikipedia|▼Menu]

このページのノートに、このページに関する質問があります。
質問の要約:地図表示の不具合
1874年の完成当時の原型をほぼとどめている現役ドライドックである、横須賀海軍施設3号ドック。全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML
全座標を出力 - GPX
位置データを出力 - RDF表示

横須賀海軍施設ドック(よこすかかいぐんしせつドック)は、神奈川県横須賀市の在日アメリカ海軍横須賀海軍施設内にあり、米海軍および海上自衛隊の艦艇修理に使用されている6基の乾ドックである。最古の1号ドックは横須賀造船所時代の明治4年(1871年)に完成しているが、現在もなお使用されている。最大の6号ドックは大和型戦艦の建造ならびに修理・改造を行うことを目的とし、昭和15年(1940年)に完成したドックであり、現在は米海軍空母の修理などに使用されている。また当記事ではドックの付帯設備であるクレーン、ポンプ室等についても必要に応じて説明を加えていく。

文中の年代については、明治6年以前は参考文献から何日の出来事であったかわかるものは和暦(西暦)の形で日まで表記し、日までわからないものは和暦の年号をもとに和暦(西暦)で標示した。また明治6年の明治改暦以降についても、明治6年以前の表記と統一性を持たせるために和暦(西暦)の表記とした。

目次

1 概要

2 ドライドック建設に至る経緯

2.1 鎖国の終焉と艦船修理需要の発生

2.2 横須賀製鉄所の建設開始とヴェルニーの登場


3 1号ドックの建設

3.1 ヴェルニーの奔走

3.2 1号ドックの建設開始


4 3号ドックの建設

5 2号ドックの建設

6 軍艦の大型化と4号ドックの建設

7 5号ドックと建艦競争

8 6号ドックと空母信濃

8.1 6号ドックの建設

8.2 空母信濃の建造


9 横須賀海軍施設とドライドック

10 影響

11 各ドックのデータ

12 脚注

12.1 注釈

12.2 出典


13 参考文献

14 外部リンク

概要

開国後、江戸幕府は西洋式の艦船の建造を開始し、また諸外国から艦船の購入を進めるようになった。そのような中で西洋式の艦船を建造し改修、修理する施設の必要性が高まっていった。江戸幕府は主にフランスの援助を仰ぎ、小栗忠順レオン・ロッシュらが適所を検討した結果、現在の横須賀の地に慶応元年(1865年)に横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)が開設された。そして艦船を改修、修理する横須賀製鉄所内の主要施設として、慶応3年(1867年)にドライドックの建設が開始された。現在の横須賀海軍施設1号ドックである[1]

大政奉還から王政復古の大号令に至る一連の流れにより江戸幕府が廃され、明治政府が成立するが、横須賀造船所の建設は幕府時代と同様に進められることになった。慶応3年(1867年)に建設が開始されていたドックは明治4年(1871年)に完成し、引き続き3号ドック、2号ドックが建設された。1号ドック、3号ドックの建設時まではレオンス・ヴェルニーなどフランス人技術者のもとでドック建設が進められていたが、2号ドックについては設計段階ではフランス人が携わったものの、実際の工事場面では横須賀造船所で技術を学んだ恒川柳作が総責任者となってドックを完成へと導いた。その後恒川は日本各地でドック建造に携わることになり、日本のドライドック建設の草分け的な存在となった[2]

横須賀造船所は組織改革などを経て、横須賀海軍工廠となり、日本の海軍力増強に伴い規模の拡大が進んだ。そのような中、明治38年(1905年)には軍艦の大型化に対応した4号ドックが完成し、さらに大正5年には第5号ドックが完成した。5号ドックは当時激しさを増していた列強の建艦競争の中、完成直後に延長工事が行われることになり、大正13年(1924年)に延長工事は完成した。なお4号ドックも昭和3年(1928年)に艦艇の大型化などに対応するために延長工事が開始され、翌昭和4年(1929年)に完成した[3]

日本は昭和9年(1934年)にワシントン海軍軍縮条約からの脱退を宣言し、昭和11年(1936年)にはロンドン海軍軍縮条約からも脱退し、その結果激しい海軍の軍拡競争が行われることになった。そのような中、昭和10年(1935年)に大和型戦艦の建造および改修、修理が可能な大規模なドックとして、6号ドックの建設が開始され、また昭和11年(1936年)には、明治初年に完成した1号ドックの延長工事が行われた。6号ドックは昭和15年(1940年)に完成し、6号ドックを使用して当初大和型戦艦の三番艦となる予定であった信濃が建造されたが、進水後呉海軍工廠へ回航される途中、米潜水艦アーチャーフィッシュ魚雷攻撃を受け沈没した。なお、4号ドックでは昭和18年(1943年)から昭和19年(1944年)にかけて再延長工事が行われ、1号から6号ドックは現在の規模となった[4]

終戦後、横須賀海軍工廠は連合軍に接収されることになり、1号から6号ドックもまた接収された。昭和22年(1947年)には米海軍艦船修理廠が発足し、各ドックではアメリカ海軍艦船の改修、修理が行われるようになった。特に横須賀が米第七艦隊の事実上の母港として空母の配備が開始されると、最大の6号ドックでは米空母の改修、修理が行われるようになった。平成末期の現在も、明治初年に完成した1号ドックを始めとする、戦前に造られたドライドックでは米海軍、海上自衛隊の艦船の改修、修理が行われ続けている[5]
ドライドック建設に至る経緯
鎖国の終焉と艦船修理需要の発生

嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航し、翌嘉永7年(1854年)には日米和親条約が締結され、日本の鎖国体制は終焉を迎えた。そのような中、江戸幕府は嘉永6年(1853年)9月、これまで禁止していた荷物船以外の大型船の建造を認めることとした。これは諸外国の船が相次いで日本へ来航する状況を踏まえ、軍艦の建造を可能とすることを狙ったものであった[6]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:153 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:FIRTREE