横綱
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「よこあみ」と読む「横網」とは異なります。
第35代横綱・双葉山定次
(在位1938 - 1945年)

横綱(よこづな)は、大相撲力士の格付け(番付)における最高位の称号である。語源的には、横綱だけが腰に締めることを許されている白麻製のの名称に由来する。現行制度では横綱に降格はなく、現役引退によってのみその地位から降りる。従って、横綱になる力士はその地位にふさわしい品格と抜群の力量を要求される。

大相撲においては、横綱は、全ての力士を代表する存在であると同時に、依り代であることの証とされている。それ故、横綱土俵入りは、病気・故障等の場合を除き、現役横綱の義務である。

横綱は、天下無双であるという意味を込めて「日下開山」(ひのしたかいさん)と呼ばれることもある。

本場所では幕内力士として15日間毎日取組が組まれる。

なお、大関が横綱の地位を狙うことを綱取りという。
目次

1 歴史

1.1 横綱の誕生以前

1.2 横綱の誕生

1.3 横綱免許

1.4 非公認横綱


2 横綱土俵入り

3 横綱力士が締める綱

4 特権と責務

5 昇進

5.1 横綱審議委員会への諮問

5.2 伝達式

5.3 横綱昇進前3場所成績


6 横綱をめぐる議論

6.1 横綱制度

6.2 昇進基準

6.3 具体的なケース


7 記録

7.1 横綱在位記録

7.2 短命横綱

7.3 優勝回数記録

7.4 大関通過場所数

7.4.1 スピード通過記録

7.4.2 スロー通過記録


7.5 新横綱の優勝

7.6 同時最多在籍横綱

7.6.1 4横綱

7.6.2 5横綱


7.7 一人横綱

7.8 横綱空位・横綱不在

7.9 その他の記録


8 大横綱

8.1 大横綱間の対戦成績

8.2 大横綱と呼ばれる各力士の成績


9 横綱の品格

10 横綱相撲と注文相撲

11 アマチュア相撲の横綱

12 関連項目

13 脚注

歴史
横綱の誕生以前

古くは戦国時代に黒と白の絹を混ぜて撚り合わせた綱の記述が文献に見える。この黒白横綱を締めた力士は江戸時代中頃の宝暦から安永にかけての浮世絵にその姿を留めている。
横綱の誕生「横綱一覧」も参照

その後興行としての江戸相撲が人気を博すようになると、吉田司家行司の総元締めとしての権力を保持するため横綱免許を与えて横綱を作ることを考えた。それまでの将軍家の観戦する上覧相撲寺社への奉納相撲等特別な式典に際して行っていた土俵入りを、土俵上で行っていた顔見世土俵入りと結び付け、綱を締めさせて1人で土俵入りを披露させることにした。 1789年11月に昇進した第4代(実質初代)横綱・谷風(2代)の彫像(仙台市勾当台公園 2005年) 1789年11月に昇進した第5代横綱・小野川喜三郎の浮世絵

そして1791年(寛政3年)、第11代将軍・徳川家斉の上覧相撲において二代目 谷風梶之助仙台の谷風)と小野川喜三郎が行った紙垂をたらした純白の綱をつけた土俵入りが天下公認となり、横綱が誕生することになった。しかし、次に阿武松緑之助が免許を受けるまで38年も実力者(雷電為右衛門など)がいたにも関わらず免許がなく、阿武松免許の直前に、五条家が当時の両大関玉垣柏戸に横綱を免許したため、吉田司家は、横綱免許を制度化した感がある。この頃、横綱のステータスはまだ認知されていなかったのか、玉垣・柏戸が免許を受けたので横綱土俵入りをしたという記録は見つかっていない。阿武松より、本場所で土俵入りするようになり、幣(しで。綱につける紙の飾り)の形が現在と同じ(紙の長さ方向ではなく、幅方向に折り返すもの)となった。それから江戸相撲では、吉田司家が横綱免許を与えた者が正式な横綱として認められるようになり、途切れることなく現役横綱力士が存在した。

もともと当初は、「大関」の地位の中で横綱を付けられる者のことを「横綱」と呼んでいた(谷風・小野川は関脇で横綱になっている。また、不知火諸右衛門は横綱免許後に関脇で取っている。)。このことから横綱になることを「綱を張る」と表現する。また、横綱は、当初、横綱免許を持つ大関に対する名誉称号に過ぎなかったため、番付では大関が最高位であった。それゆえ、雷電爲右エ門のように現在なら当然横綱に値するような成績を残しながら横綱免許を受けなかった強豪大関も少なくない。当時の力士の多くは大名の御抱えであり、その力関係や派閥争いの影響で、横綱を逃すケースもあったと考えられる。

このように第16代横綱・初代西ノ海嘉治郎の時代までは横綱は名誉称号という性格が強かったが、1890年(明治23年)5月場所からは番付に横綱の文字が掲載されるようになった。これは初代西ノ海嘉治郎が東正大関小錦八十吉に対して東張出大関にされ下風に立ったような形になった西ノ海をなだめる方法として横綱と記したのである。そして、1909年(明治42年)2月には相撲規約改正に伴い横綱の称号が地位として定められることになった。「横綱は大関の中の強豪」という考え方が一般的になると、本場所での成績によって横綱を免許されるようになった。その最初のケースは、第17代横綱・初代小錦八十吉だったと言われている。明治初期は藩閥政治の有力者が後援者として力士を番付面で優遇して誕生させた「藩閥横綱」も存在したが、近代スポーツとしての体裁を整える中でこれらは姿を消した。現在は日本相撲協会横綱審議委員会の諮問を仰ぎ、独自に推挙する。

横綱が大関の名誉称号であった時代の横綱に対しては「横綱を免許される」、地位となって以降は「横綱に昇進する」という様に、表現を使い分ける場合もある。但し、誰までが「免許」で誰からが「昇進」かはっきりした基準があるわけでもなく、区分は明確ではない。第15代横綱・初代梅ヶ谷藤太郎までは番付が大関のままだったのでこれを基準とする見方や、第19代横綱・常陸山谷右エ門と20代横綱・2代梅ヶ谷藤太郎の同時免許(このときの代数は、年長の常陸山を19代と決めている)で横綱は大関の上位と認識されるようになったのでこれを基準とする見方、史上初の相撲協会推挙による横綱である第41代横綱・千代の山雅信を基準とする見方がある。

現在行われている歴代横綱一覧は、第12代横綱・陣幕久五郎が1900年に富岡八幡宮に建立した「横綱力士碑」を基にしているため、伝説上の人物などを含む。
横綱免許

元々横綱という言葉は谷風梶之助・小野川喜三郎以前にもあったとされるが、吉田司家が谷風・小野川に与えた新スタイルの横綱は何をベースにしたのか、いまだにはっきりしていない。江戸初期の頃、邸宅を立てる時の地鎮祭に当時の大関を2人呼び、地面にたくさんの綱を張った中で四股を踏ませた。このお祓いの地踏みに参加する資格を与えられることを「横綱之伝」と言ったとされるが、これが歴史的事実であるかどうかは極めて疑わしいとされている。腰に巻いた綱は寛政から50年ほど前に、大坂相撲の強豪力士の間で黒と白のツートンカラーの太い綱を巻くブームがありそれを応用したとする指摘もあるが、この白黒の綱には四手も垂らされておらず、1人土俵入りを行ったわけでもないので、化粧まわしの装飾品だったと考える方が自然である[1]

1789年(寛政元年)11月、江戸相撲の司家であった吉田司家が谷風と小野川に横綱を授与したのが、横綱免許の始めとされる(なお、代数は前述の陣幕によって定められたものが、相撲協会によって公認された)。


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