横井小楠
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7月に江戸の越前松平家別邸を訪れ、江戸幕府政事総裁職となった春嶽の助言者として幕政改革に関わり、幕府への建白書として『国是七条』を起草した。8月、大目付岡部長常に招かれ、『国是七条』の内容について説明を行い、一橋徳川家邸では徳川慶喜に対面して幕政について意見を述べた[1]。この頃、坂本龍馬岡本健三郎と福井藩邸で会った[1]

同年12月19日、熊本藩江戸留守居役の吉田平之助の別邸を訪れ、熊本藩士の都築四郎・谷内蔵允と酒宴をした。谷が帰った後、3人の刺客(熊本藩足軽黒瀬一郎助、安田喜助、堤松左衛門)の襲撃を受けた。不意の事であったため小楠は床の間に置いた大小を手に取れなかった。そのため、身をかわして宿舎の常盤橋の福井藩邸まで戻り、予備の大小を持って吉田の別邸まで戻ったが、既に刺客の姿は無く、吉田・都築ともに負傷していた(吉田は後に死亡した)。この事件後、文久3年(1863年)8月まで福井に滞在。熊本藩では、事件の際の「敵に立ち向かわずに友を残し、一人脱出した」という小楠の行動が武士にあるまじき振る舞い(士道忘却)であるとして非難され、小楠の処分が沙汰された。福井藩は、国家のために尽くしている小楠が襲われたのは、単に武士道を欠いた者と同一視するべきではなく、刀を取りに戻ったのは当然であると小楠を擁護した。同年12月16日、寛大な処置として切腹は免れたものの、小楠に対し知行(150石)召上・士席差放の処分が下され、小楠は浪人となった[1]

元治元年(1864年)2月に龍馬は勝海舟の遣いで熊本の小楠を訪ねている。小楠は[注釈 1]『国是七条』を説いた。この会談には徳富一敬も同席している[要出典]。この際、小楠は兄の遺子で自身の甥にあたる左平太と太平神戸海軍操練所に入所できるよう、龍馬を通じて海舟に依頼した[1]。その後、慶応元年(1865年)5月にも龍馬が小楠を訪ねてきているが、第二次長州征討の話題となった時、小楠が長州藩に非があるため征討は正当だと主張したため龍馬と口論になったという(これ以後、小楠と龍馬は会うことが無かった)[1]

慶応2年(1866年)、甥の左平太・太平がアメリカ留学する際には『送別の語』を贈った[1]

慶応3年(1867年)12月18日、長岡護美と小楠に、朝廷から新政府に登用したいので上京するように通知する書状が京都の熊本藩邸に送られる。藩内では小楠の登用に異論が多く、家禄召し上げ・士席剥奪の状態であることもあって、「小楠は病気なので辞退したい」と朝廷に申し出ており、小楠の門人の登用についても断った[1]。慶応4年(1868年)3月5日、参与となった長岡護美がその辞退を申し出る書を副総裁岩倉具視に提出したが、岩倉は小楠の事を高く評価していたため「心配には及ばない」と内示し、3月8日に改めて小楠に上京の命令が出された。熊本藩としてもこれでは小楠の上京を認めるしかないと決定し、3月20日に小楠および都築黙兵衛(都築四郎)の士席を回復し、3月22日に上京を命じた[1]

4月11日、大坂に到着。4月22日に徴士参与に任じられ、閏4月4日に京都に入り、閏4月21日に参与に任じられる。翌22日には従四位下の位階を与えられた。しかし激務から体調を崩し、5月下旬には高熱により重篤な状態となった。7月に危険な状態を脱し、9月に再び出勤できるまでに回復した[1]
暗殺 横井小楠殉節地、京都市中京区寺町丸太町下る東側 横井小楠之墓、南禅寺天授庵、京都市左京区

明治2年(1869年)1月5日午後、参内の帰途、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で十津川郷士ら6人組(上田立夫、中井刀禰尾、津下四郎左衛門、前岡力雄、柳田直蔵、鹿島又之允)の襲撃を受けた。上田が小楠の乗った駕籠に向かって発砲し、6人が斬り込んできた。護衛役などが応戦し、小楠も短刀1本で攻撃を防ごうとするが、暗殺された。享年61。小楠の首は鹿島によって切断され持ち去られたが、現場に駆け付けた若党が追跡し、奪い取った[1]

殺害の理由は「横井が開国を進めて日本キリスト教化しようとしている」といった事実無根なものであったといわれている(小楠は実際には、キリスト教が国内に入れば仏教との間で争いが起こり、乱が生じることを懸念していた[1])。しかも弾正台の古賀十郎ら新政府の開国政策に不満を持つ保守派が裁判において横井が書いたとする『天道覚明書』という偽書を作成して横井が秘かに皇室転覆を企てたとする容疑で告発するなど、大混乱に陥った。紆余曲折の末、実行犯であった4名(上田・津下・前岡・鹿島)が明治3年(1870年)10月10日に処刑されることとなった。なお、実行犯の残り2人のうち柳田は襲撃時の負傷により明治2年(1869年)1月12日に死去し、中井は逃走し消息不明となっている。その他、実行犯の協力者として3人が流刑、4人が禁固刑に処されている。
人物

鎖国体制幕藩体制を批判し、それに代わり得る新しい国家社会の構想を公共交易の立場から模索した。

小楠は、公共性・公共圏を実現するために、「講習討論」「朋友講学」といった身分階層を超えた討議を政治運営のもっとも重要な営為として重視した。また、交易を重視する立場から、外国との通商貿易をすすめ、産業の振興をも交易として捉えて国内における自律的な経済発展の方策を建議し、そのために幕府を越えた統一国家の必要性を説いた。

体系的に小楠の国家論が提示された文書として、万延元年(1860年)に越前福井藩の藩政改革のために執筆された『国是三論』がある。そのほか、学問と政治のむすびつきを論じた嘉永5年(1852年)執筆の『学校問答書』、マシュー・ペリーやエフィム・プチャーチンへの対応についての意見書である嘉永6年(1853年)執筆の『夷虜応接大意』、元治元年(1864年)の井上毅との対話の記録『沼山対話』、慶応元年(1865年)の元田永孚との対話の記録『沼山閑話』などがある。

共和制大統領制)の事を「の世(禅譲)」と評した事でも知られる。
評価

勝海舟 「はじめて会った時から、途方もない聡明な人だと心中大いに敬服して、しばしば人を以ってその説を聞かしたが、その答えには常に『今日はこう思うけれども、明日になったら違うかもしれない』と申し添えてあった。そこでおれはいよいよ彼の人物に感心したよ」[3]

徳富一敬 「その風采容貌を申しますと、丈けは十人並より少し低い方で、顔は少し長面で、眉がきりきりと釣り上り、眼光鋭く、英気五尺の短身に溢るるばかりでありました。右の通り活発でありましたので、少壮の時分は、少しは荒い事もありましたそうです。その資質は聡敏正直、思慮周密、また忠孝節義の事実話を聞きましては、落涙に堪えざるていの人でありました。弁舌なども非常に爽快なもので、故木戸孝允氏なども評して、横井の舌剣と申した位で、誰でも横井に対すると、話が了然と腹に落ちました。また智術策略ていのことは至って嫌いで、それにまた抱負も中々大きな男でありましたが、一方にはまた中々精細に情愛の濃やかな人で、その老婆の病気の時などは、自身両便の世話から、手足の撫でさすりまでするというような塩梅で、兄時明の看病、兄の子供に対する情愛は、傍らから涙の出つる程でありました。書生の教育なども、決して規則ではならぬならぬと言って、常に人々の性質につれて、自然にこれを誘導する様に致し、ただ利害の考えや、へつらいなどは激しく督責しました」[4]



家系

横井家は
桓武平氏北条氏嫡流得宗家に発する。北条高時の遺児・北条時行の子が尾張国愛知郡横江村に住し、時行4世孫にあたる横江時利の子が、横井に改めたのがはじまりとされている。時利の子は横井時永といい、その子孫は時勝、時延、時泰、時安---と続いた。北条氏の子孫として代々祖先の通字であった「時」の字を名乗りに用いる(写真でも、肩衣に北条氏の家紋である三つ鱗を付けているのがわかる)。

小楠の夫人は2人おり、先妻は熊本藩士小川吉十郎の娘・ひさ(嘉永6年(1853年)2月結婚、安政3年(1856年)死別)、後妻は矢嶋源助の妹の津世子(安政3年(1856年)結婚)。津世子との間には、後に同志社第3代総長や衆議院議員を務める長男の横井時雄海老名弾正の妻となる長女のみやが生まれた[1]

津世子の姉には徳富一敬に嫁いだ徳富久子と竹崎順子がおり、妹には矢嶋楫子がいる。

徳富蘇峰は父一敬の影響で自らを小楠の門弟と称し、小楠を生涯の師と仰いでいる。

横井太平は小楠の甥で、小楠の兄・時明の次男。兄・横井左平太と共に小楠らの資金を得て米国に密航。


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