桑名藩
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桑名城石垣

桑名藩(くわなはん)は、江戸時代伊勢国に存在した。藩庁は桑名城(現在の三重県桑名市吉之丸)。
目次

1 藩史

1.1 前史

1.2 本多家(忠勝系)の時代

1.3 久松松平家の時代(第一期)

1.4 奥平松平家の時代

1.5 久松松平家の時代(第二期)

1.5.1 三方お得替え

1.5.2 定永から定猷までの時代

1.5.3 定敬と幕末の動乱

1.5.4 桑名藩の存続決定と終焉



2 桑名藩のその後

3 社会

3.1 産業

3.2 特産物


4 文化・教育

5 人口の増減

6 歴代藩主

6.1 本多家

6.2 松平(久松)家

6.3 松平(奥平)家

6.4 松平(久松)家


7 幕末の領地

8 脚注

8.1 注釈

8.2 出典


9 参考文献

10 関連リンク

11 関連項目

藩史
前史 滝川一益

桑名は中世より「十楽の津」と呼ばれ、商人の港町と交易の中心地として発展した[1]。永正12年(1515年)頃の連歌師・宗長の手記では「港の広さが5、6町。寺々家々の数が数千軒、停泊する数千艘の船の明かりが川に映って、星のきらめくように見える」とある[1]

伊勢国はやがて織田信長の支配下に入り、桑名には信長の家臣・滝川一益が入るが、一益は長島城を修築して居城としたため、桑名城は家臣が守備した[2]。滝川は信長没後に羽柴秀吉と対立して没落し(賤ヶ岳の戦い)、信長の次男・織田信雄の支配下に入る。天正18年(1590年)の小田原征伐後、伊勢国を支配していた信雄は、秀吉の駿河転封の命令を拒絶して改易され、伊勢国は豊臣家臣が分散して入封することになった。桑名には天正19年(1591年)に秀吉の家臣・一柳直盛が入封し、規模は小さいが築城も行われている[2]文禄4年(1595年)からはかつての西美濃三人衆として信長の下で勇名を轟かせた氏家直元の次男・氏家行広が2万2,000石で入った[2]慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いで行広は西軍に与して桑名城を守備したが、西軍が敗れて壊滅したため、戦後に徳川家康によって改易された[2]
本多家(忠勝系)の時代 初代藩主本多忠勝

慶長6年(1601年)1月1日、上総大多喜藩より家康譜代の重臣・本多忠勝が10万石で入ったことにより、桑名藩が立藩する[1][3]。忠勝は徳川四天王の1人としてその武名を天下に轟かせた猛者であり、後代に武田信玄や織田信長らから賞賛されたという伝承が成立した武将で、桑名藩の歴代藩主の中で最も有名な人物である。忠勝は関ヶ原の戦いでは本戦に参加して武功を挙げるなど、武勇ばかりが際立って目立つが、藩政では「慶長の町割り」と呼ばれる大規模な町割りや城郭の増改築などを積極的に行って[1]、今日まで続く桑名市街の基礎となり[4]、さらに東海道宿場の整備も行われて[5]、実質的に桑名藩政を確立した名君でもあった。

慶長14年(1609年)、忠勝は隠居して嫡男・本多忠政が第2代藩主となる[6]大坂の陣では徳川方の先鋒として参戦し[6]、大坂方の薄田兼相毛利勝永らと激戦を繰り広げた[7]。また大坂の陣後、家康の孫娘で豊臣秀頼の正室であった千姫と忠政嫡男の本多忠刻が婚姻したこともあり、元和3年(1617年)7月14日に忠政は先の武功により西国の押さえとして播磨姫路藩15万石に加増移封され[8][7][9]、忠刻は千姫の脂粉料として10万石を(姫路新田藩)、忠刻の実弟・本多政朝が5万石をそれぞれ与えられて播磨に移封となった[9]
久松松平家の時代(第一期)

本多家に代わって家康の異父弟である松平定勝が、山城伏見藩5万石から6万石加増の11万石で入った[10]。元和6年(1620年)には伊勢長島領7,000石を与えられて11万7,000石となる[10]。定勝は寛永元年(1624年)3月14日に死去し、第2代藩主は次男の松平定行が継いだ[10]。この際に7,000石を弟の松平定房に分与したため[10]、再び11万石となった。定行は水道の設置[11]、上水道(町屋御用水)工事、城下における湿地の開拓による三崎新田の開発などに尽力したが、寛永12年(1635年)7月28日に15万石に加増された上で伊予松山藩に移封された[11]

このため、美濃大垣藩6万石[12]より定行の弟・松平定綱が11万3,000石に加増されて入る[13]。定綱も新田開発や水利の整備、家臣団編成などに尽力し名君としての誉れが高く、実際の桑名藩祖は定綱であるともいわれており、実際に鎮国公、鎮国大明神として祭られている[13]。しかし桑名は洪水が相次ぐ場所で、慶安3年(1650年)の大洪水では6万4,000石もの被害をもたらす大惨事となった。

慶安4年(1651年)12月に定綱は没し、第4代藩主には次男の松平定良承応元年(1652年)2月に就任するも、病弱のため明暦3年(1657年)7月に死去した[14]


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