林喜重
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林 喜重
生誕
1920年7月17日
日本 神奈川県鎌倉町
死没(1945-04-21) 1945年4月21日(24歳没)
日本 鹿児島県阿久根町折口浜
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1941 - 1945
最終階級 海軍少佐
墓所神奈川県鎌倉市報国寺
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林 喜重(はやし きじゅう[1]、よししげ[2]1920年大正9年)7月17日 - 1945年昭和20年)4月21日)は、日本海軍軍人海兵69期太平洋戦争末期、戦闘機紫電改搭乗員として本土防空戦に参加。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐
生涯

1920年大正9年)7月17日、神奈川県鎌倉町浄明寺に生まれた。鎌倉町立第二尋常高等小学校神奈川県立湘南中学校を卒業。 1938年昭和13年)4月、海軍兵学校69期に入校。母親は林が軍に入ってからは毎日裏山のお宮に参拝して無事を祈っていた[3]1941年(昭和16年)3月に同校を卒業、少尉候補生として練習艦隊重巡那智」乗組、練習航海に出発。4月、重巡「摩耶」乗組。11月、海軍少尉任官し第37期飛行学生を拝命。1942年(昭和17年)8月、大分空付、戦闘機専修。1943年(昭和18年)1月、海軍中尉。2月、同教程終了。

1943年(昭和18年)、251空着任。磯崎千利は林を「ウィットに富みユーモアのある明るい人でよくみんなを笑わせていた」と語っている[4]。5月、ラバウル進出。6月7日P-39を一機撃墜、林の初撃墜となる。9月、253空分隊長着任。11月、厚木海軍航空隊付。1944年(昭和19年)3月1日海軍大尉任官。3月15日361空所属の戦闘407飛行隊長兼分隊長に着任。整備分隊長の天沼彦一は、愉快に勤務でき非常にいい人と林を見上げていたという[5]7月10日、361空は解隊、戦闘407は221空に転属。10月、フィリピン進出。

1944年(昭和19年)12月、戦闘407は343空(剣部隊)に転属。出水空で「紫電」による訓練に従事。1945年(昭和20年)1月末、松山に移動。搭乗機が「紫電改」に代わる。林と鴛淵孝菅野直に倣って敵をひきつけるために自分の「紫電改」にストライプ模様を描いた[6]

司令の源田実大佐は、林は大人しい鴛淵大尉とやんちゃな菅野大尉の中間の性格であったが、どちらかと言えば、無口で地味な方であり、部下を愛し、部下には肉親の如く敬愛され、親の語られるところによれば小さい時から体も小さく、頑丈な方ではなかったらしいが、芯は強く、一度目標を定めたが最後、梃子でも動かないところがあったと評している[7]。また、343空の3人の隊長(林、菅野、鴛淵)は兄弟のように仲が良く、林は菅野と我慢比べをしてB-29の空襲下で退避せずに談笑していたこともあったという[8]。副長の中島正中佐は、知将の鴛淵、仁将の林、猛将の菅野と評する[9]。分隊長の市村五郎は「リベラルな感じの人格者」と評する。分隊士の本田稔は林を温情タイプですばらしい隊長と慕っていたという。中尾秀夫上飛曹は「むっつりしたところがあるが熱血漢で操縦技量も高い」と評する。伊奈重頼上飛曹は「温厚で口数少ないが人間的に立派」と評する。青柳茂一飛曹は「部下思いで腕もいい度胸もいいこの隊長のためならと思える兄貴のような人」と評する[10]宮崎勇(戦闘301)によれば、林は物静かで闘志を内に秘めるタイプの人で、部下からは温厚隊長と信頼され、部下が死ぬと自室で一人泣きするやさしい兄か肉親のように慕われていたという[11]

1945年(昭和20年)4月16日鹿児島県喜界島上空の戦闘で林機の増槽が落下しないトラブルが発生。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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