東京ガスサッカー部
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4月16日に関東実業団蹴球連盟(現:関東サッカー協会)の総会で「関東東実業団蹴球」(リーグ戦)を創設することが決定し、2部(他に三共日本興業銀行日本銀行など)に所属することとなった[5] が、12月の太平洋戦争開戦に伴って小平の厚生閣練習場が農場に変えられ、選手も徴兵されていった[6]
太平洋戦争終戦後
1945年

日本蹴球協会加盟。
1948年

チーム再建が進み、物資不足の中で実業団リーグへ参加[6]
1967年

第1回関東サッカーリーグに参加するも、入れ替え戦で敗れ降格。
1970年

東京都社会人サッカーリーグに所属して2位の成績。なお、同年の東京都リーグは読売サッカークラブ(現在の東京ヴェルディ)が優勝したが、直接対決(1試合)は、東京ガスが5-3で読売クラブに勝利した[7]
1980年代
1985年

第19回関東社会人サッカー大会で優勝。サッカースクール開校[8]
1986年

関東サッカーリーグに昇格。全国社会人選手権では、奈良教員、YKK、地元沖縄の海邦クラブ茨城日立を下し決勝戦へ進出するも、古河電工千葉に敗れ準優勝[9][10]
1988年

入部2年目の大熊清が主将を務め[8]、第12回全国地域リーグ決勝大会に初出場。中央防犯松島クラブを抑えてグループ1位で決勝リーグに進んだが、マツダオート広島サッカー部京都紫光に阻まれて昇格ならず[11]。全国社会人選手権ではベスト4進出[12]
1989年

前年に続き第13回全国地域リーグ決勝大会に出場するも、西濃運輸サッカー部に敗れグループ2位で決勝リーグ進出を逃した[11]
1990年代
1990年

大熊、川勝良一小林伸樹大金直樹、矢野眞光(後にFC東京育成部長)を擁し[8]第14回全国地域リーグ決勝大会で優勝。全国社会人選手権ベスト4進出[13]
1991年

日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格。
1992年

ブラジル人FWアマラオが加入。この年初めて外国籍選手枠を3つ全て使うことになった[8]。Jリーグへの参入は行わず、企業内チームのままジャパンフットボールリーグ(JFL)へ参加した。
1993年

名称会員打診先
つくる会地元青年会議所や
東京都サッカー協会が中心[14]東京ガス[15]
誘致する会会長:志太勤 (東京調布ロータリークラブ)[16]
副会長:林和男 (調布市体育協会会長)[17]
顧問:吉尾勝征 (調布市長)[14]ヴェルディ川崎[15]
東京ガス

6月、調布市議会にて「プロサッカーチーム誘致に関する決議」が可決された[18]。9月、東京ガスサッカー部は東京スタジアム(後の味の素スタジアム)建設計画に伴い発足した「つくる会」や東京都サッカー協会から[19]、同スタジアムをホームとするJリーグクラブ創設を打診された。「つくる会」は、スタジアム完成前にできることを模索し[14] 開業までに地元のプロクラブを育てようというスタンスでいたため[15]、東京ガスサッカー部代表としてJFLの評議員を務めていた上原英治は、これを好意的に受け止め前向きに検討すると回答。程なく、東京ガスが調布を拠点にJリーグ加盟を目指す方針と報じられた[20]

時系列日付出来事
1992年12月つくる会(正式名称「東京にプロサッカーチームをつくる会」)発足
1993年
06月17日調布市議会がJリーグ誘致決議を全会一致で可決。
誘致予算880万円を計上
09月27日つくる会が東京ガスに調布進出を打診。
10月19日誘致する会(正式名称「スタジアム建設促進とプロサッカーチームを調布に誘致する会」)発足。
誘致予算全額が誘致する会のものとなる[14]
11月29日誘致する会が、ヴェルディ川崎と東京ガスに調布進出を打診。
12月08日東京ガスが進出を断念

また、10月には新たに「誘致する会」も発足。同会は東京ガスサッカー部が東京都のサッカーチームとして最上位のカテゴリーにいることや、「つくる会」が候補としていること[21]、サッカー教室などの地道な地域活動を評価し[22]、東京ガスにJリーククラブ創設を打診。さらに「誘致する会」は発足当初からヴェルディ川崎(後の東京ヴェルディ)に対しても調布進出を打診する意向であった[23]。ヴェルディ誘致が急速に行われた結果、「つくる会」との対立に発展[23]。時間をかけて東京ガスと協議するつもりでいた「つくる会」においても結論を急がざるを得なくなり、東京ガス側でも“無関係な騒ぎ”による動揺が広がった[17]

12月、東京ガスは、公益企業としての限界から現時点でプロ化はできない[24][25]、時期尚早である[注 1] として[19]調布進出を見送り、JFLと地域貢献に力を入れるとした[16]。なお、ヴェルディ川崎も同月に移転を断念。これ以後、元東京ガスサッカー部監督で同部部長の鳥原光憲を中心に、Jリーグ参画に向けての足固めと強化を図っていった。同年、ジュニアユース及びジュニアチームを創立[26]


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