明治維新
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明治天皇の東京行幸
フランスの新聞雑誌(英語版)『ル・モンド・イリュストレ(フランス語版)』1869年2月20日刊行号内の挿絵

明治維新(めいじいしん、: Meiji Restoration, Meiji Revolution[1])とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。薩長土肥の四藩中心に行われた江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制法制宮廷身分制地方行政金融流通産業経済文化教育外交宗教思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。[要出典]
目次

1 改革までの経緯

2 改革の時期

3 改革の理念

3.1 五箇条の御誓文

3.2 五榜の掲示


4 改革の組織

4.1 中央政府

4.1.1 首都の位置

4.1.2 行政

4.1.3 立法

4.1.4 司法


4.2 宮中

4.3 地方行政


5 改革の内容

5.1 岩倉使節団の影響

5.2 改革された諸制度

5.2.1 軍隊

5.2.2 身分制度

5.2.3 経済産業

5.2.4 思想

5.2.5 宗教

5.2.6 法律

5.2.7 文化

5.2.8 教育

5.2.9 外交政策



6 改革の結果

6.1 列強に座した日本、それを先鞭としたアジア

6.2 エジプトとの比較論


7 脚注

7.1 注釈

7.2 出典


8 参考文献

9 関連項目

10 外部リンク

改革までの経緯 戊辰戦争中の薩摩藩藩士(着色写真)。フェリーチェ・ベアト撮影 四国連合艦隊による下関砲撃(馬関戦争

明治維新は、黒船来航に象徴される欧米列強の経済的・軍事的進出に対する抵抗運動(攘夷運動)に起源を持つ。阿片戦争以後、東アジアで欧米による帝国主義の波が強まる中で、長年の国是であった鎖国体制を極力維持し、旧来の体制を維持しようとする思想が現れた。しかし江戸幕府は、朝廷の意に反する形で開国・通商路線を選択したため、攘夷運動は尊王論と結びつき、朝廷の権威のもと幕政改革と攘夷の実行を求める尊王攘夷運動として広く展開されることとなった。

一方、開国・通商路線を是認する諸藩の中にも、いわゆる雄藩を中心に、幕府による対外貿易の独占に反対し、あるいは欧米列強に対抗すべく旧来の幕藩体制の変革を訴える勢力が現れた。これらの勢力もまた朝廷を奉じてその要求を実現させようとしたため、幕末は京都を舞台に朝廷を巡る複雑な政争が展開されることとなった。尊王攘夷運動は、薩英戦争下関戦争などにおいて欧米列強との軍事力の差が改めて認識されたことで、観念的な攘夷論を克服し、国内統一・体制改革(近代化)を優先して、外国との交易によって富国強兵を図り、欧米に対抗できる力をつけるべきだとする「大攘夷」論が台頭し、尊王攘夷運動の盟主的存在だった長州藩も開国論へと転向していくことになった。

幕府は、公武合体政策の下朝廷の攘夷要求と妥協しつつ旧体制の存続を志向したため、次第に雄藩らの離反を招いた。また、黒船来航以来の威信の凋落もあって国内の統合力を著しく低下させ、幕末は農民一揆が多発するようになった。このような情勢の中、諸侯連合政権を志向する土佐藩越前藩らの主張(公議政体論)や、より寡頭的な政権を志向する薩摩藩の主張など、幕府を廃し、朝廷の下に権力を一元化する国内改革構想が現れてくることとなる。また、それは旧弊な朝廷の抜本的な改革を伴う必要があった。結果として、この両者の協力により王政復古が行われ、戊辰戦争による旧幕府勢力の排除を経て権力を確立した新政府は、薩摩・長州両藩出身の官僚層を中心に急進的な近代化政策を推進していくこととなった。
改革の時期 明治天皇御真影。キヨッソーネによって描かれたコンテ画を丸木利陽が写真撮影したもの(明治21年1月)

開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる明治元年旧9月8日1868年10月23日)となる。しかし、一般的にはその前年にあたる慶応3年(1867年)の大政奉還王政復古以降の改革を指すことが多い(維新体制が整う以前の政治状況については幕末の項で扱うものとする)。終了時期についても、廃藩置県の断行(明治4年、1871年)、西南戦争の終結(明治10年、1877年)、内閣制度の発足(明治18年、1885年)、立憲体制の確立(明治22年、1889年)までとするなど諸説ある。

この期間の政府(一般的には慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古以後に成立した政権[2])を特に明治政府(めいじせいふ)、新政府(しんせいふ)、維新政府(いしんせいふ)などと呼称することが多い。「藩閥政府」と揶揄されることもあるが、中級官僚以上でも旧親藩・旧幕臣などから採用された者も少なくなく、一概に一部雄藩のみが主導したともいえない。当時の人々からは主に大政奉還と廃藩置県を指して御一新と呼ばれていた。
改革の理念
五箇条の御誓文詳細は「五箇条の御誓文」を参照 幟仁親王が揮毫した御誓文の原本 「大政奉還図」 邨田丹陵


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