明暦の大火
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明暦の大火を描いたもの
戸火事図巻(田代幸春画、1814年)

明暦の大火(めいれきのたいか)とは明暦3年1月18日1657年3月2日)から明暦3年1月20日1657年3月4日)までに江戸の大半を焼いた大火事。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。


目次

1 概要

2 状況

3 復旧

4 諸説ある火元

4.1 本妙寺失火説

4.2 幕府放火説

4.3 本妙寺火元引受説


5 影響

6 題材にした作品

7 脚注

8 参考資料

9 関連項目

10 外部リンク


概要

江戸の火事」も参照。

明暦の大火・明和の大火文化の大火を江戸三大火と呼び、明暦の大火における害は延焼面積・死者共に江戸時代最大であることから、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半が焼失し、死者数については諸説あるが3万から10万人と記録されている。また、将軍・徳川家綱在位中に起きた明暦の大火において焼失した江戸城天守閣は、保科正之が「再建を暫し延期する」と述べたが遂に再建されなかった。

東京大空襲関東大震災などの戦禍・震災を除くと日本史上最大の火災であり、ロンドン大火ローマ大火・明暦の大火を世界三大火と考える人もいる。

明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われ、御三家の屋敷が江戸城外に転出するとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。

また、市区改正が行われるとともに、防衛のため千住大橋だけである隅田川の架橋(両国橋永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など市街地が拡大される共に、吉祥寺下連雀など郊外への移住も進んだ。

更に、防災への取り組みも行われ、火除地[1]や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された[2]。現在でも上野広小路などの地名が残っている。幕府は、防火のための建築規制を施行した。[3]。それに加え、耐火建築として土蔵造[4]瓦葺屋根[5][6]を奨励した[7]。もっとも、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、江戸はその後もしばしば大火に見舞われた。
状況むさしあぶみ』より、明暦の大火当時の浅草門。牢獄から解放された罪人達を「集団脱走している」と誤解した役人が閉門したので逃げ場を失った多数の避難民が炎に巻かれ、を乗り越えた末に堀に落ちていく状況。

この火災の特記すべき点は火元が1箇所ではなく、本郷小石川麹町の3箇所から連続的に発生したもので、ひとつ目の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し、結果的に江戸市街の6割、家康開府以来から続く古い密集した市街地においてはそのすべてが焼き尽くされた点にある。このことはのちに語られる2つの放火説の有力な根拠のひとつとなっている。

当時の様子を記録した『むさしあぶみ』は、「明暦2年11月から雨が80日以上降ってなくて非常に乾燥した状況が続いていて当日は辰の刻(午前8時頃)から北西風が強く吹き人々の往来もまばらであった」としている。

3回の出火
1月18日3月2日)未の刻(14時頃)、本郷丸山の本妙寺より出火。神田京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及ぶ。霊巌寺で炎に追い詰められた1万人近くの避難民が死亡、浅草橋では脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざしたので逃げ場を失った2万人以上が死亡。

1月19日3月3日)巳の刻(10時頃)、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所より出火。飯田橋から九段一体に延焼し、江戸城は天守閣を含む大半が焼失。


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