明応の政変
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明応の政変(めいおうのせいへん)は、室町時代明応2年(1493年)4月に細川政元が起こした室町幕府における将軍の擁廃立事件。

この政変により、将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。なお、近年の日本史学界においては戦国時代の始期をこの事件に求める説がある。
目次

1 経緯

1.1 将軍位を巡る争い

1.2 六角征伐と河内征伐


2 経過

2.1 政元のクーデター

2.2 朝廷の対応

2.3 政長の死・義材の降伏


3 政変の原因・考察

4 影響とその後

5 脚注

6 史料

7 参考文献

8 関連項目

経緯
将軍位を巡る争い 足利義材

足利義材は、応仁の乱で西軍の盟主に擁立された義視の嫡子である。乱が西軍劣勢で収束すると、父と共に土岐成頼を頼って美濃へ逃れていた。義材の従兄の9代将軍義尚守護大名奉公衆を率い、六角行高(高頼)討伐(長享・延徳の乱)のため近江親征するが、果たせないまま長享3年(1489年)3月に近江で病死する。

義材は父と共に上洛して10代将軍に推挙されるが、伯父の前将軍足利義政管領細川政元などは、堀越公方足利政知の子で天龍寺香厳院主となっていた義尚と義材の従兄清晃(足利義澄)を推す。しかし、日野富子が甥(妹の子)である義材を後援し、翌延徳2年(1490年)正月に義政が死去すると、義視の出家などを条件として義材の10代将軍就任が決定し、7月5日に正式に朝廷から将軍に任命された[1]。富子は義政の御台所、義尚の生母で、将軍家に嫁いで40年近くになり、その間将軍に代わって政務を取り仕切ることもあった[2]。将軍家を代表するような人物でもあった彼女の支持は義材の将軍就任に大きな意味を持ち[2]、実際に義材の家督継承を朝廷へ報告したのも彼女であった[3]

この決定に反対した政元や伊勢貞宗らは義視父子と対立し、4月27日に貞宗は政所頭人を辞任した。貞宗は前将軍の義尚が幼少時から側近として仕えて養育に尽くし、日野富子の信任が厚かった。また、その父伊勢貞親文正の政変の際に義尚のために義視殺害を義政に進言したことがあり[4]、義材の将軍就任後に後難を恐れたためと言われている。これは、応仁の乱で義尚を支持した人々が共有する危機感であった。

ところが奇しくも同じ日、日野富子が将軍後継から外した清晃のために義尚の住んでいた小川御所(小川殿)を譲渡することを決めた[5]。将軍の象徴である邸宅を清晃が継ぐことを知った義視は義材を軽視するものと激怒して、翌月には富子に無断で小川御所を破却し、その所領を差し押さえた[2]。富子が清晃のために小川御所を譲渡しようとした背景には、いきなり権力の座に就いた義材や義視が暴走しないように牽制する意図があったとされる[2]。その後、富子はこれを義視の約束違反と反発して義材との距離を置くようになり、義視の病死後も関係は改善されなかった。
六角征伐と河内征伐

義材は前将軍義尚の政策を踏襲し、丹波山城など、畿内における国一揆に対応するため、延徳3年(1491年)4月に近江の六角行高討伐の大号令を発し、軍事的強化を図った。この六角征伐は細川一門をはじめ多くの大名が参加し、圧倒的な武力で行高を甲賀へ、さらに伊勢へと追い払い、成功裡に終わった[6]。また、政元がこの征伐に反対したことや[7]、征伐中に政元の武将・安富元家が六角軍に大敗したことから、義材は政元への依存を減らすため、以後はほかの大名を頼るようになった[8]

明応2年(1493年)正月、義材は河内畠山基家(義豊)を討伐するために大号令を発し、再び大名たちへ出兵を要請した[9]。そして、京には義稙の命令を受けた大名が多数参陣したが、政元は河内征伐に反対し、この出兵に応じなかった[9][10]

これは元管領であった畠山政長が敵対する基家の討伐のため、義材に河内への親征を要請したことに起因する。政長は応仁の乱で従兄弟の畠山義就と家督をめぐって激しく争い、義就の死後はその息子の基家と争いを続けるなど、畠山氏は一族・家臣が尾州家と総州家で二分して争っていた[11]。義材は二分された畠山氏の家督問題を政長優位の下で解決させるため、そして政元への依存を減らすため、政長の願いを聞き入れる形でこの出兵に応じた[12]

政元は先の六角征伐に続いてこの討伐にも反対していたが、それには次のような理由があった。畠山氏は細川氏と同じ管領に就任しうる有力な大名家であるが、その畠山氏が二分され勢力が減退してゆくのは政元ら細川氏にとって好都合であった。そのため、応仁の乱で政元の父・細川勝元はこの家督争いに介入、尾州家の政長を支持して総州家の義就と争わせることで畠山氏の力を削ごうとした。だが、義材の河内征伐により、政長のもとで畠山氏が再統一されると、再び強大化した畠山氏が細川氏を脅かす可能性があった[10]。再統一された畠山氏は同じく畿内に勢力を持つ政元にとって、「新たなる強敵」の出現に他ならなかった[10]

結局、義材は政元の反対を振り切り、2月15日に討伐軍を京から河内に進発させた[9]。そして、2月24日に義材は河内の正覚寺に入り、ここを本陣とした[9]。大名らもまた、畠山基家が籠城している高屋城(誉田城)周辺に陣を敷き、城を包囲した。そのため、基家方の小城は次々に陥落し、3月の段階で基家は孤立を余儀なくされ、義材や政長の勝利は目前となった[13]

だが、政元は畠山氏の再統一を避けるため、政長の宿敵たる基家と結託した。すでに政元は河内征伐の開始直前までに基家の家臣と接触しており、興福寺尋尊の記録では基家の重臣が河内征伐の直前、「将軍が攻めてきてもこちらは何ら問題はない。なぜならば、伊勢貞宗以下、大名らとはすでに話がついているからだ」と豪語していたと記している(『大乗院寺社雑事記』明応2年2月23日条)[14]。政元は義材に不満を抱き始めた伊勢貞宗をはじめ、赤松政則といった大名、そして日野富子までを味方に引き入れ、クーデター計画を着々と練っていた。
経過
政元のクーデター 細川政元

4月22日夜、政元はついに挙兵、クーデターを決行した。清晃をすぐ遊初軒に向かえ入れて保護し、義材の関係者邸宅へと兵を向けた[15]。その兵によって、23日には義材の関係者邸宅のみならず、義材の弟や妹の入寺する寺院が襲撃・破壊され[15]、弟の一人慈照院周嘉が殺害された。更に当時の記録によると、富子が先代(義政)御台所の立場から直接指揮を執って[16]、政元に京を制圧させたと記録されている。


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