早川紀代秀
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早川 紀代秀
誕生 (1949-07-14)
1949年7月14日
兵庫県川西市
死没 (2018-07-06) 2018年7月6日(68歳没)
日本福岡県福岡市早良区百道福岡拘置所
ホーリーネームティローパ
ステージ正悟師
教団での役職建設省大臣
入信1986年4月
関係した事件男性信者殺害事件
坂本堤弁護士一家殺害事件
判決死刑(執行済み)
現在の活動死亡(刑死)

早川 紀代秀(はやかわ きよひで、1949年7月14日[1] - 2018年7月6日)は、元オウム真理教幹部。元死刑囚。ホーリーネームはティローパ[2]。教団内でのステージは正悟師で[3]省庁制が採用された後は建設省大臣だった[4]。麻原の信頼が厚く、裏のトップといわれた。
目次

1 来歴

1.1 学生時代

1.2 社会人時代

1.3 入信・出家

1.4 入信後


2 事件への関与

2.1 裁判

2.2 死刑確定後


3 人物

3.1 人物評

3.2 洗脳が解けた過程

3.3 オウムでの渡航歴


4 関連事件

5 著作

6 参考文献

7 脚注

来歴
学生時代

両親の疎開先の[5]兵庫県川辺郡東谷村(現:川西市)に生まれる。父親は国鉄職員[5]。祖父母の影響で小学生までは神仏を信じていた。2?3歳の時に大阪府堺市に転居し[6]大阪府立三国丘高等学校へ入学。フロイトマルクスに興味を持つ。勉強だけでなくスポーツもそこそこ得意だった[7]

神戸大学農学部園芸学科に進学した[8]。1年時は学園紛争により大学が閉鎖されていたため、アルバイト漬けの生活を送る[5]。この頃学生運動にも参加し公安にマークされていた[9]と言われているが、本人いわく事実ではないという[5]。3年次より造園学を専攻、緑地計画工学のゼミを受講し、卒業後は大阪府立大学大学院に進学した[5]。この頃は宗教は胡散臭いと感じていた[7]
社会人時代

1975年、鴻池組に入社。公園緑地設計、マンション開発の土木設計などを担当していた[5]。1979年11月結婚。1980年に鴻池組を退職し[10][11]、日本リサーチ研究所に転職。1984年にはダン計画研究所へ移り、取締役となった[5]

この頃、平井和正幻魔大戦』、山田正紀『神狩りシリーズ』、五島勉ノストラダムスの大予言』などのSF超常現象に次第に傾倒していき[12]、部屋の中にピラミッドをつくりそこで寝起きするようになる。1984年には阿含宗に興味を持つ[11]。しかし教祖桐山のパフォーマンスがけばけばしいと感じ手を引いた[7]。また、友人の依頼により真如苑に名前だけ入会している[7]
入信・出家

麻原の著作「超能力の開発法」に興味を持ち、1986年 3月にオウム神仙の会に電話をかけた。電話応対したスタッフの態度が悪く腹をたてるが、すぐに麻原彰晃本人から電話がかかってきた。麻原の真摯な説明ぶりに和み、4月に入会[5][13]。「宗教っぽくなく軽い感じ」をうけて、1986年6月に丹沢で開催された集中セミナー」に参加し、麻原に対面。質素な格好ながら品位と風格を感じ「この人なら」と思った[5]。このセミナーで、それまで欲求を満足させることが幸せだと思っていたが、麻原が観念を否定し、その上に満足がある、と言ったのに感銘を受けたという[5]。麻原のシャクティーパットを浮けて以降、やめらなかったタバコと趣味だった読書がやめられ、テレビは見なくなり、夫婦生活もしなくなるなど、禁欲的な生活に変わっていった[5]

その後1987年11月1日に出家[14]
入信後

青年層が多いオウム幹部の中にあって数少ない中年であり、教祖の麻原よりも年上である。なお、麻原よりも年上の幹部信徒としては他に大内利裕林郁夫、後述の波野村事件で早川とともに逮捕された満生均史らがいる。

出家後は不動産獲得の中心的役割を担い、富士山総本部の建設責任者になり[15]、全国の支部道場の用地取得などを行った。また1991年、山梨県上九一色村に第2サティアンを建設し、1993年にはサリンプラント建設に関与[16]

1990年第39回衆議院議員総選挙真理党が出馬した際には、早川自身は立候補せず、対立候補のポスター剥がしなど裏方の選挙支援をしていた[17]

1988年12月に大師となり[18]1994年7月に正悟師となる[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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