日記
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タレントの日記については「日記 (タレント)」をご覧ください。

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日記(にっき)とは、日々の出来事を紙などに記録したものである。単なる記録として扱われるものから、文学として扱われるものまで、その内容は様々である。ある人物の生涯にわたって記されるような長期にわたるものから、ある旅、ある職務、ある事件などの間だけ記された短期のものまで、期間・分量も様々であり、西洋・東洋を問わず、世界的に存在する。
目次

1 日記文学

2 日本人と日記

2.1 日本史における日記

2.2 日本の主な日記

2.2.1 前近代

2.2.2 近現代



3 日本以外の国々の日記

3.1 ヨーロッパの日記

3.1.1 フランス

3.1.2 イタリア

3.1.3 イギリス

3.1.4 ドイツ

3.1.5 その他


3.2 中国の日記


4 脚注

5 参考文献

5.1 日本・漢文日記関連

5.2 西洋史関係

5.3 日記一般に関する論考


6 関連項目

日記文学

日記が書かれる主な契機の一つとして、の記録がある(これが書物にまとめられると紀行文となる)。仕事であれ、私的な所用であれ、戦争への従軍であれ、特別な出来事の内容、見聞、心覚えを記したものとして日記は書かれた。古代ローマのカエサルガリア征服の経過を記した『ガリア戦記』がその有名な例である。

日本でも、遣唐使の随行日誌など、旅の日記(紀行)の伝統は古く、円仁の『入唐求法巡礼行記』のように世界的に著名な紀行が、9世紀に生まれている。

平安時代、9世紀末の日本では、国家体制の変化のもと、儀式化した政務のために王朝貴族たちは、外記日記など国家の記録とは別に私的な日記を作成し始める。この貴族たちの日記作成の流行をもとに、女性たちの回想録的な日記文学が生まれてきたと考えるべきであろう。その背景には、仮名文学の成熟、浄土教の発展による内省的な思考の深化などが認められる。紀貫之の『土佐日記』を始めとして『蜻蛉日記』、『紫式部日記』、『和泉式部日記』、『更級日記』、『讃岐典侍日記』などの平安時代の女流日記や『弁内侍日記』、『十六夜日記』などがその代表例である。

男性貴族の日記の多くは漢文で書かれており、歴史学の用語として漢文日記とも呼ばれるが、近年これら儀式のための先例のプールやマニュアルとして作成された日記を「王朝日記」として新たに概念化する学説も出されており(参考文献;松薗2006)、平安時代の日記文学を安易に王朝日記とネーミングすることには問題がある。

中世までは、王朝貴族(公家)・僧侶にほぼ限られていた日記も、中世末から近世に入ると、階層的に多様化し、量的にも格段に増加していく。

近代に入ると、西洋の個人主義などの影響を受け、プライベートの個人的秘密を吐露するために書かれたものも出てくる。石川啄木の『ローマ字日記』などである。実体は私小説、またはフィクションであっても、表現手段として日記の形式を借りることもある。

中学生などの交換日記や学級日誌などは、手紙の世界と重なっていると考えられる。今日では、Weblogブログ)やインターネット上のレンタル日記サイトにおいて、不特定多数に読んで貰うことを前提として、多くの公開日記が書かれている。これら新しい日記については、情報倫理の観点からも議論があり、新たな分析が必要であろう。
日本人と日記

日記は日本の歴史を解明するために欠かすことのできない史料の一つとして、同じく古くから数多く残されている古文書などとともに重要視されてきた。しかし、だからといって古来から残されてきたそれら日記の、日本における文化史的な位置付けや、社会史的な機能といったものが明らかにされてきたかというと、そうではないようである。

このような意見については、例えば『土佐日記』や『蜻蛉日記』などを例に挙げて反論される者も多い。確かに古典として認められている、これら平安時代の日記については実に数多くの研究がなされている。しかし、これらの少数の著名な日記は、周知の通り作者が同時性をもって記していったものではなく、後のある時期に一つの作品として仕上げられたものである。また、同時代に作成された日記のごく一部に過ぎないはずで、これらの作品を花開かせた数多くの無名の日記群が、これらの土壌として存在する。

河盛好蔵は「日記について」という文章で、「私たちが日記をつけておいてよかったと思うのは、自分の古い日記を読むとき」であり、そのことによって「自分の人生について多くのことを反省させ」ると述べている。また、ある人の説として日記は三つの会話、つまり「自己自身との会話、友人や肉親との会話、偉大な創造者との会話」から成り立っているとして個々の場合について例を挙げ説明を試みている。

日本人は日記好きとよくいわれる。例えば、日記専門の出版社があり、年末になると多種多様の日記が書店の店頭を飾るのは日本だけということである。この点、多田道太郎加藤秀俊の対談による「日記の思想・序説」では、その理由として個人的な会話が下手なことや、欧米諸国と異なり、夜寝る前の神に対するお祈りがないことなどが挙げられているが、原因はそのような表面的なものではなくもっと深いところにあると考えられる。この点について最も印象深い指摘は、ドナルド・キーンが『百代の過客ー日記にみる日本人ー』の序の中で触れられている第二次大戦中の日本兵の日記(米軍ではつけることが禁じられていた)の話である。ここでキーンが戦場に遺棄された日本兵の日記を翻訳する職務の経験から達せられた結論の一つは、「日記を付けるという行為が、日本の伝統の中にあまりにも確固たる地位を占めている」という。
日本史における日記

近代以前の日本の史料の代表的なものとして挙げられるのが、古文書と日記を中心とする記録類である。

日本において記録に残る最古の個人の日記は、遣唐使としてに渡った伊吉博徳によるもの(『日本書紀斉明天皇紀)とされるが、航海日誌、もしくは遣唐使としての職務の報告書の材料として作成された可能性が強く、個人の日記とは見なさない方がよいと思われる。現象的には、六国史の編纂が絶えてしまった10世紀以後に、天皇や貴族の日記が出現し、「発生」したように見えるが、もう少し前の時代にさかのぼって想定すべきであろう。朝廷の政務や行事の儀式化が進行し、それらを殿上日記や外記日記などの公日記で記録する一方、それらを上卿などの立場で運営・指導する廷臣や皇族たちの間で、次第に習慣化していったものと考えられ、初期のものとして、例えば、宇多醍醐村上3代の「三代御記」などの天皇の日記や重明親王の『吏部王記』などの皇族の日記、藤原忠平の『貞信公記』、藤原実頼の『清慎公記』、藤原師輔の『九暦』(九条殿御記)など上級貴族の日記が知られている。平安中期以降は、摂関家小野宮流勧修寺流藤原氏、高棟流平氏などが代々多くの日記を残しており、本来儀式のためのメモであった実用品としての日記が、12世紀に入ると「家」の日記化(家記の形成)し、さらに別の機能が付加され、中・下級官人も含む多くの貴族たちによって記されることになったと考えられる。中・下級官人の家柄で代々当主の家記を所持する家を特に「日記の家」と称した(『今鏡』など。また、実際には天皇家や摂関家にも「日記の家」としての要素があった)。

今日伝わる公家の日記の書名の多くは没後に付けられたものであり、執筆者自身は「私記」(藤原実頼清慎公記』・藤原資房春記』など)や「暦記」(藤原実資小右記』など、具注暦に日記を記したことによる)などと呼ぶ例が多かった。自ら命名した日記の名称が後世に伝わるのは、後奈良天皇『天聴集』や中院通秀『塵芥記』など少数である。多くは執筆者のの偏旁を採って重ねたり、諡号・官職・姓氏・居所やこれらを合わせたものが、後世の人によって命名されたのである。従って、1つの日記に複数の名称が用いられる事例も多く、藤原実資の日記は彼が「“小野宮家”の“右府(右大臣)”」であったということから、『小右記』・『野府記』という名称が並存し、更に祖父・実頼の『清慎公記』の別称『水心記』より、『続水心記』とも呼ばれている。


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