敗戦処理
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ブルペンで投球練習をするリリーフ投手

野球におけるリリーフ(relief)、救援、または継投とは、先発投手の降板後、他の投手登板すること。

リリーフを担う投手を日本では「リリーフ投手」や「救援投手」、アメリカ合衆国(以下アメリカ)では「リリーバー(reliever)」などと呼び、その役割によって特別な名称が用いられる場合もある(#リリーフ投手の種類を参照)。
目次

1 概要

2 歴史

2.1 MLB

2.2 NPB


3 リリーフ投手の種類

3.1 抑え

3.2 中継ぎ

3.2.1 セットアッパー

3.2.2 ワンポイントリリーフ

3.2.3 ロングリリーフ・便利屋

3.2.4 敗戦処理



4 脚注

5 参考文献

6 関連項目

7 外部リンク

概要

リリーフ投手は、試合途中にブルペンで投球練習を行い、あらかじめ出番に備えたうえで登板する。チームによってベンチ入り登録されるリリーフ投手の人数は異なるが、日本プロ野球(以下NPB)の場合は6 - 8人ほどである。シーズンあたりの試合数が160試合以上になり、また原則として引き分けもないため長時間の試合になりやすいメジャーリーグベースボール(以下MLB)の場合は10人ほどがベンチ入りしている。先発投手が先発ローテーションに従い中4日以上の間隔を空けて登板するのに対し、リリーフ投手は数試合連続登板することも多い(登板記録に関しては登板#登板に関する記録を参照)。

「投手の肩は消耗品」[1]という考えが根強く存在しており、実際、特にリリーフ投手は緊迫した局面での登板がどうしても多くなることなどから心身の疲弊につながり、大きな故障を引き起こすようにもなってきている[2]、若くして現役引退を余儀なくされる選手が少なくない[3]

規定投球回数を満たしにくいこともあってリリーフ投手の活躍を明確な数値として表すことは容易でなく、勝利数や奪三振数などの伝統的に主要な投手記録では先発投手を上回ることが事実上不可能に近い。しかし「投手分業制」が浸透し、先発投手の完投が減少するに従って、優秀なリリーフ投手の存在がチームの勝率に与える影響は大きくなっていった。また後述するようにリリーフ投手を表彰する各種タイトルも制定されるようになり、その評価は徐々に高まってきている。
歴史
MLB

フィラデルフィア・フィリーズ監督のエディ・ソイアーは投手のジム・コンスタンティー1948年よりリリーフ専門で起用しはじめた。コンスタンティーは1950年に16勝7敗22セーブ、防御率2.66を記録する活躍を見せ、最優秀選手にも選ばれた。さらにフィリーズはこの年のナショナルリーグで優勝した。

こうしたリリーフ専門投手の登場により、MLBでは1960年に非公式ながら最も優秀な抑え投手を表彰するファイアマン賞が制定された。さらに1969年には最多セーブが公式タイトルに制定された。

1974年にはマイク・マーシャルが106試合登板・15勝21セーブの成績を残し、リリーフ投手として初めてサイ・ヤング賞を獲得した。

また、1976年にはローレイズ・リリーフマン賞2005年にはDHL デリバリー・マン・オブ・ザ・イヤーという表彰がそれぞれ開始されていった。

1979年ニューヨーク・ヤンキースは7、8回にロン・デービスを、9回にリッチ・ゴセージを登板させる継投パターンを確立した[4]。この年14勝を挙げたデービスはセットアップマンの先駆となり、1981年には中継ぎ投手として史上初めてMLBオールスターゲームに選出された[4]

1986年にはジョン・デュワンとマイク・オドネルによってホールドという中継ぎ投手を評価するための指標が発明され、1999年から正式に集計が開始された。しかし、MLBの公式記録にはなっておらず、最多ホールドや最多ホールドポイントなどの公式表彰もされていない。

アメリカ野球殿堂入りを果たしているリリーフ投手は、1985年ホイト・ウィルヘルムを皮切りに、ローリー・フィンガーズ1992年)、デニス・エカーズリー2004年)、ブルース・スーター2006年)、リッチ・ゴセージ2008年)、トレバー・ホフマン2018年[5]の6人である。また、通算300セーブを達成した投手のことを「300セーブクラブ」と称することがある。
NPB

NPBにおけるリリーフ投手の草分けは、1965年に20勝を挙げ「8時半の男」の異名をとった巨人の宮田征典とされる。

1970年代までは、多くのエース投手がセーブポイントが付く場面での登板もこなし馬車馬のように投げていた(安田猛新浦壽夫など)。一方で初期の代表的なリリーフ投手である南海ホークスの佐藤道郎や、中日ドラゴンズの鈴木孝政といった投手は、谷間先発やロングリリーフなど「穴埋め」もこなしており、そのため最多セーブが先発投手につくことも、リリーフ投手が規定投球回数に達することもあった(NPBでは1974年に最多セーブが公式タイトルに制定されたが、こうした起用法もあり2004年まで最多セーブポイントに改定されていた)。1979年の日本シリーズ第7戦での投球がノンフィクション「江夏の21球」として書籍化された江夏豊は、この年に、救援投手として初のシーズンMVPを受賞した。

1980年代にはロッテの倉持明が、“一打サヨナラ負け”の大ピンチを5度に亘って凌ぎ、「炎のストッパー」と評された。1985年には中西清起が阪神の日本一に貢献[6]1988年には抑え投手の郭源治が救援投手としては2人目のMVPを受賞。

1990年代には長嶋茂雄が勝ちパターンのリリーフ継投を「勝利の方程式」と命名し、1996年からは最優秀中継ぎ投手賞が制定された。この頃までは、救援投手が1試合に複数のイニングにまたがって登板する「イニングまたぎ」が少なくなかったが(2015年のインタビューにて与田剛が言及している[要出典])、近年[いつ?]では、イニングまたぎは批判の対象になり、「1イニング限定」及び「ワンポイント」が一般的になっていった[7][8]1998年には当時の流行語大賞にも選ばれた「ハマの大魔神」こと佐々木主浩が3人目となるMVP受賞。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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