徳大寺実能
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 凡例徳大寺 実能
時代平安時代後期 - 平安時代末期
生誕1096年永長元年)
死没1157年10月6日保元2年9月2日
改名藤原実能 → 徳大寺実能 → 真理(法名)
別名徳大寺左大臣、大炊御門左大臣
官位従一位左大臣
主君堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇後白河天皇
氏族藤原北家閑院流
父母父:藤原公実、母:藤原光子
兄弟藤原実隆、三条実行[1]藤原実兼藤原経実室、覚源、西園寺通季[2]、仁実、徳大寺実能、藤原実子[3]、藤原公子[4]源有仁室、待賢門院璋子[5]藤原季成、済実、藤原家政
藤原顕隆女、藤原宗忠女、廊御方(藤原通季女)、不詳
幸子藤原頼長室)、公能公親公保、能慶、公雲、円実、公全、公性、公重、春日局、育子
特記
事項清華家徳大寺家始祖。
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三条烏丸御所跡・徳大寺実能が鳥羽法皇に献じ御所となった、京都市中京区三条通烏丸西入ル南側

徳大寺 実能(とくだいじ さねよし、永長元年(1096年) - 保元2年9月2日1157年10月6日))は、平安時代後期の公卿。父は藤原公実。母は但馬守・藤原隆方の娘で、堀河鳥羽両天皇の乳母藤原光子待賢門院の同母兄であり、徳大寺家の祖となる。久安3年(1147年)徳大寺を建立し、徳大寺左大臣と称された。子に徳大寺公能徳大寺公親徳大寺公保がいる。従一位左大臣
生涯

長治元年(1104年)に従五位下に叙せられる。元永元年(1118年)、璋子が鳥羽天皇の中宮になると中宮権亮天治元年(1124年)璋子が院号宣下を受けると待賢門院別当になる。璋子の兄であることから重用され、保安3年(1122年)に権中納言に任じられた後は、左兵衛督右衛門督検非違使別当と累進。長承2年(1133年)には長女・幸子(22歳)を藤原頼長(14歳)と結婚させることで、摂関家と関係を強めた。保延2年(1136年)に正二位権大納言となるが、永治元年(1141年)の崇徳天皇の退位と康治元年(1142年)の待賢門院出家により、閑院流は低迷期に入る。

閑院流の中心は異母兄の三条実行だった。頼長の支援を受けた実能は、実行を名誉職である太政大臣に棚上げして空席を作り、久安6年(1150年)に内大臣となった。久寿2年(1155年)に幸子が逝去すると頼長から離れて美福門院に接近し、皇太子・守仁親王(後の二条天皇)の東宮傅(とうぐうのふ)になるなど変わり身の早さを見せる。保元元年(1156年)9月、左大臣となる。保元2年(1157年)正月に従一位に叙せられるが、7月に出家して法名を真理と称した。9月に仁和寺の小堂(徳大寺)で薨去。歌人として有名で、かつての家人・西行と親交が深かった。
系譜

父:
藤原公実

母:藤原光子(藤原隆方女)[6]

妻:藤原顕隆

長女:藤原幸子1112年 - 1155年) - 藤原頼長

長男徳大寺公能1115年 - 1161年) - 正二位右大臣


妻:藤原宗忠

次男:徳大寺公親1131年 - 1159年) - 正三位参議


妻:廊御方(藤原通季女)

三男:徳大寺公保1132年 - 1176年) - 正二位権大納言



生母不詳

男子:能慶

男子:公雲 - 延暦寺僧都

男子:円実 - 法眼

男子:公全

男子:公性

男子:公重[7]

女子:春日局 - 鳥羽天皇宮女、頌子内親王



養子

女子:藤原育子(1146-1173) - 実は藤原忠通の娘[8]二条天皇中宮


脚注

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^ 清華家三条家始祖。
^ 清華家西園寺家始祖。
^ 鳥羽天皇乳母藤原経忠
^ 藤原経実室、経宗・懿子母
^ 鳥羽天皇中宮
^ 藤原北家勧修寺流出身
^ 公全・公性の名は『尊卑分脈』に記載されているが、『徳大寺家譜』には公全・公性の名はなく、代わりに公重の名が記載されている。
^尊卑分脈』などでは実父が実能で、養父が忠通とする説もある。


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