幕政改革
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幕政改革(ばくせいかいかく)は、江戸時代幕府が実施した、財政および政治制度その他の諸改革を指す。俗に、享保の改革寛政の改革天保の改革をもって「江戸幕府の三大改革」と呼ばれるが、これ以外にも、大規模な財政・制度改革は幾度にも亘って行われている。
目次

1 幕藩体制の成立期

2 綱吉の政治と正徳の治

3 享保の改革

4 田沼時代

5 寛政の改革

6 天保の改革

7 幕末の改革

8 関連項目

9 脚注

10 参考文献

幕藩体制の成立期

初代将軍徳川家康、2代秀忠、3代家光の時代は、江戸幕府体制の確立期にあたり、この期間における諸改革は「改革」というよりもむしろ「体制固め」というべきであるため、幕政改革には含まれない。家康・秀忠の2代において(大御所時代も含む)、江戸時代幕藩体制の基本的骨格が創作されていく。大名統制(武家諸法度参勤交代改易)、農民統制(宗門改め)、宗教政策(切支丹禁令、寺院諸法度)、朝廷政策(禁中並公家諸法度)、海禁政策(いわゆる一連の鎖国令)、譜代大名による幕政の独占など、基本的な幕府の政治制度が整えられていき、一応の完成を見たのは3代徳川家光の時代である。続く4代家綱の時代は、松平信綱酒井忠勝ら有能な老中らに恵まれ、安定した幕府政治が行われた。
綱吉の政治と正徳の治

しかし、安定した幕府政治も完璧という訳ではなく、様々な矛盾は当初から内包され、次第に問題化していくことになる。とりわけ幕府財政の危機は、諸国の幕府直轄金山・銀山の枯渇傾向、長崎における海外交易赤字による金銀の流出、明暦の大火・大地震・富士山の噴火などの災害復興事業による出費などから、いち早く訪れた[1]。5代将軍となった徳川綱吉は、儒教による理念的な政治思想を掲げつつも、財政改革の必要に迫られ、勘定奉行荻原重秀を抜擢して解決を図った。荻原は元禄小判による貨幣改鋳(金含有率を減らして貨幣流通量を増やす)によって財政問題を一時的に解決するが、結果として元禄期のインフレ状況を生じることとなり、物価の高騰を招いた。ただし現在ではこのインフレ政策(金融政策)と、綱吉と桂昌院による寺社改築など公共投資財政政策)により、金回りが良くなって好景気となり、元禄文化が華開いたと、肯定的に見直す向きもある。また、財政以外の改革では生類憐れみの令が知られる。

6代将軍となった徳川家宣甲府徳川家から徳川宗家を継ぎ将軍職となると、甲府藩家臣であった側用人間部詮房や学者の新井白石を起用し、改革を行った。間部・新井が主導した改革を年号をとって「正徳の治」という。綱吉時代の政策は否定され、生類憐れみの令は撤回、勘定吟味役の創設、正徳金銀発行(デフレ政策)による綱吉時代の財政矛盾の解決などを行ったが、将軍家宣・7代家継があいついで早世したため、改革は中途半端に終わった。
享保の改革詳細は「享保の改革」を参照

8代将軍となった徳川吉宗は、紀州徳川家の出身であり、それまでの幕政を主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく、大胆に政治改革を主導することとなった。将軍吉宗自ら主導した改革を「享保の改革」と呼ぶ(1716年 - 1745年)。吉宗が最も心を砕いたのは米価の安定であった。商品流通・貨幣経済の発展に伴い、諸物価の基準であった米価は江戸時代を通じて下落を続け、「米価安の諸色高」と言われた状況にあり、米収入を俸禄の基本とする旗本・下級武士の困窮に直接つながっていたためである。そのため吉宗は、倹約令で消費を抑える一方、新田開発による米増産、定免法採用による収入の安定、上米令堂島米会所の公認など、米に関する改革を多く行ったため、「米将軍」の異名を取った。米価対策の他にも目安箱の設置、足高の制による人材抜擢制度の整備や、江戸の都市政策(町火消の創設、小石川養生所の設置)、西洋知識禁制の緩和(漢訳洋書禁輸の緩和、甘藷栽培など)、商人対策(相対済令株仲間の公認など)などの諸改革が行われた。幕府財政は一部で健全化し、1744年には江戸時代を通じて最高の税収となったが、税率変更や倹約の徹底により百姓・町民からの不満を招き百姓一揆打ちこわしなどが頻発した。もはや米作収入に依存する財政は矛盾を解消できない段階に到達しつつあった。
田沼時代詳細は「田沼時代」を参照

吉宗が行った享保の改革によって、幕府の財政赤字は解決をみたが、続く9代家重の時代に一揆の頻発などの問題が持れる。結果、現場の代官の判断による負担軽減策が図られ、再び幕府財政は悪化する。家重時代の末期から続く10代家治時代にかけて幕政を主導し財政を立て直したのが、側用人から老中となった田沼意次である(なお、これ以後の幕政改革は、ほぼ老中が主導することになる)。田沼が政治改革を主導した時期を「田沼時代」と呼ぶ(1760年代 - 1786年頃)。田沼は、それまでの農業依存の幕府経済を改め、重商主義的な改革を行うことによって財政の立て直しを図る。株仲間の奨励策による運上金・冥加金の徴収、町人資本による印旛沼手賀沼の干拓事業に代表される新田開発、長崎貿易の推奨(特に俵物など輸出商品の増産)など、積極的に改革を推し進め、幕府財政を立て直すことに成功した。また、蘭学の奨励、工藤平助らの提案による蝦夷地調査、アイヌを通じた対ロシア交易の模索など、海外政策の改革も行っている。その結果、幕府の現金収益は、これまでの最高を記録する。その一方で、重商主義から来る金銭崇拝的傾向が瀰漫し、賄賂政治が横行したとされ、また幕府伝統の重農主義を重んずる松平定信ら譜代大名から反撥されるようになる。田沼時代の約20年目に起きた浅間山の噴火とそれによる凶作(天明の大飢饉)は、それまでの成果を無に帰す事となり、再び幕府財政は悪化する。加えて凶作期においては、それまでの新田開発が裏目に出る事になり(新しく開拓された水田は、当然ながら従前の水田よりも条件が悪いため、凶作の影響も大きい)、特に印旛沼干拓事業は無惨な失敗となる。子の田沼意知暗殺や、後ろ盾であった将軍家治の死などの不運が重なったことにより、田沼が失脚したことで田沼政治は終局する。
寛政の改革詳細は「寛政の改革」を参照

11代将軍となった家斉の初期を補佐した老中が松平定信である。彼は田沼時代の弛緩した雰囲気を粛正すべく寛政の改革をスタートすることとなった(1787年 - 1793年、さらに1817年まで寛政の遺老によって政策は継続)。定信は将軍吉宗の孫にあたり、吉宗の改革を理想としたため、田沼時代のインフレを収めるため、質素倹約・風紀取り締まりを進め、超緊縮財政で臨んだ。この改革の性格は田沼時代の全否定であり、すなわち重商主義政策は抑えられ株仲間は解散を命じられ、大名に囲米を義務づけ、江戸へ流入した百姓を出身地へ強制的に帰還させ(旧里帰農令)、また棄捐令を発して旗本・御家人らの救済を図るなど、保守的な傾向が強かった。また蘭学を再び厳しく取り締まり、出版統制や風紀粛正を行った。また学問分野では寛政異学の禁で朱子学を公式の学問とし、林家の私塾であった昌平坂学問所(昌平黌)を官立とするなど文武の奨励を行った。対外対策では、林子平の蝦夷地対策を発禁処分として処罰し、漂流者大黒屋光太夫を届けたロシアのラクスマンに対し交易を完全に拒絶するなど、強硬姿勢で臨んだ。都市政策としては先述の旧里帰農令に加え、人足寄場の設置などを行う。全体として町人・百姓に厳しく、武士を優遇する改革でもあり、人心は定信の理想についていけないままであった。また重商主義政策の放棄により、田沼時代に健全化した財政は再び悪化に転じ、もはや倹約令ごときでは回復不能であった。


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