岡部幸雄
[Wikipedia|▼Menu]

岡部幸雄
2010年の皐月賞予想会に出場した岡部
基本情報
国籍 日本
出身地群馬県新田郡強戸村
(現:太田市
生年月日 (1948-10-31) 1948年10月31日(69歳)
身長161cm
体重53kg
血液型A型
騎手情報
所属団体日本中央競馬会
所属厩舎鈴木清(1967年-1984年)
→フリー(1984年-2005年)
初免許年1967年
免許区分平地競走
騎手引退日2005年3月10日
2005年2月20日(最終騎乗)
重賞勝利171勝
中央競馬165勝、
地方競馬4勝、
日本国外2勝
G1級勝利38勝
中央競馬37勝、
日本国外1勝
通算勝利18646戦2943勝
経歴
所属中山競馬場(1967年-1978年)
美浦トレーニングセンター
(1978年-2005年)
テンプレートを表示

岡部 幸雄(おかべ ゆきお、1948年10月31日 - )は、日本の元騎手日本中央競馬会(JRA)に所属し1967年から2005年にかけて活動した。群馬県新田郡強戸村(現:太田市)出身。

20世紀後半から21世紀初頭にかけて中央競馬のトップジョッキーとして活躍し、競馬ファンから名手の愛称で親しまれた。アメリカの競馬に感化され、「馬優先主義」をはじめとする理念や技術を日本に持ち込んだ。中央競馬において、特定の厩舎や馬主に拘束されないフリーランス騎手の先駆けとなったことでも知られる。1995年1月から2007年7月まで、中央競馬における騎手の最多勝記録(最終的には2943勝)を保持した。

※文中の「GI競走」は日本のパート1国昇格前のGI競走を、「GI級競走」は日本のパート1国昇格後のGI競走およびJpnI競走を指す(詳細については競馬の競走格付けを参照)。
目次

1 人物歴

1.1 概要

1.2 少年時代

1.3 馬事公苑時代(1964年4月 - 1966年3月)

1.4 騎手時代(1967年3月 - 2005年3月)

1.4.1 下積み時代

1.4.2 日本国外への遠征(1971年以降)

1.4.3 シンボリルドルフでクラシック三冠を達成(1984年)

1.4.4 フリー騎手のさきがけとなる(1984年)

1.4.5 騎手生活最大の落馬事故(1988年)

1.4.6 関東のトップジョッキーとして活躍

1.4.7 キャリア晩年

1.4.7.1 左膝の故障からの復帰(2004年1月)

1.4.7.2 騎手引退(2005年3月)



1.5 騎手引退後

1.6 年表


2 私生活

3 成績

3.1 通算成績(中央競馬のみ)

3.2 年度別成績(中央競馬のみ)

3.3 日本国外・地方競馬における成績


4 表彰

5 騎手としての特徴

5.1 競馬観

5.1.1 馬優先主義


5.2 騎乗論

5.3 身体

5.4 競馬関係者からの評価


6 著書

7 映像作品

8 テレビ・CM出演

9 ギャラリー

10 関連項目

11 脚注

11.1 注釈

11.2 出典


12 参考文献

13 外部リンク

人物歴
概要

少年時代に中央競馬の騎手を志し、馬事公苑の騎手養成所に入学。1967年3月に騎手としてデビューした。2年目の1968年牝馬東京タイムズ杯で優勝して重賞初制覇を達成し、翌1969年には関東リーディングジョッキー2位を獲得、1971年優駿牝馬(オークス)を優勝して八大競走初制覇を達成するなどデビュー当初から活躍。1984年には中央競馬史上4人目の牡馬クラシック三冠達成騎手となった。引退するまでの間に全国リーディングジョッキーを2回(1987年1991年)、関東リーディングジョッキーを11回[† 1]獲得。1995年に騎手として中央競馬史上最多となる通算2017勝を挙げ、以降2005年3月に引退するまでの間、最多勝利記録を更新し続けた[† 2](成績に関する詳細については#成績を参照)。日本国外へ積極的に遠征し、その経験をもとに中央競馬に対しさまざまな提言を行った。また、特定の厩舎に所属せずエージェントを介して騎乗依頼を受ける騎手業のスタイルを確立した。また、日本騎手クラブ会長としても活動した。騎手引退後は競馬評論家的活動を行っている。
少年時代

1948年に誕生。実家は農家で、の育成も行っていた。岡部は物心がつくかつかないかという頃から馬に乗せられ、小学生の頃には自力で速歩駈歩を行うことができるようになった[1]。幼少期は体質が弱く、また平均よりも身長が低かったためコンプレックスを抱くことが多かったが、やがて乗馬においてはむしろ小柄なことが有利に働くことを知り、中学生時代には中央競馬の騎手を志すようになった[2]。中学校3年生の秋に馬事公苑の騎手養成所に願書を提出、事後に父の承諾を得て受験し、合格した[3]

岡部は、騎手になったことについて祖父の影響が強かったと述べている。実家が馬の育成を行っていたのは祖父の意向によるものであり、幼少期から馬に騎乗する機会を得ると同時に、馬の世話を課されたことによって馬に対する愛情には世話をすることの辛さが含まれることを学んだ。また、祖父に連れられて足利競馬場に通うことが多く、競馬に親しんだ[4]
馬事公苑時代(1964年4月 - 1966年3月)

1964年4月に馬事公苑騎手養成所に入学。16名いた養成所の同期生には柴田政人福永洋一伊藤正徳らがおり、花の15期生と呼ばれる。

岡部曰く、馬事公苑の実習においては競馬関係者の息子が教官に贔屓されて能力の高い馬があてがわれ、岡部のようなバックボーンのない者よりもいい成績を収めた。その結果岡部は成績の悪い者を集めた班に振り分けられた。岡部は一矢報いるために能力の著しく劣る馬を調教し、成績優秀者の馬に劣らぬ高いパフォーマンスを発揮させることに成功した。岡部は教官の贔屓によって無意識のうちにハングリー精神が培われたとしている[5]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:167 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:FIRTREE