小辺路
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地理院地図Googleマップ 小辺路(伯母子山地) 熊野古道小辺路・薄峠付近の尾根道(高野町)

小辺路(こへち)は、熊野三山への参詣道・熊野古道のひとつ。高野山和歌山県伊都郡高野町)と熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)を結び、紀伊山地を南北に縦走する。
目次

1 概要

2 歴史

2.1 開創

2.2 近世まで

2.3 参詣道の確立

2.4 小辺路の信仰

2.5 近世参詣記

2.6 幕末から近代

2.7 現代


3 小辺路の峠

3.1 水ヶ峯

3.2 伯母子峠

3.3 三浦峠

3.4 果無峠


4 自然誌

4.1 地理

4.2 水系

4.3 気候

4.4 植物分布


5 文化財保護

6 史料

7 注

8 文献

8.1 史料

8.2 踏査記

8.3 調査報告・研究

8.4 自然誌

8.5 地方誌


9 関連項目

10 外部リンク

概要 熊野古道の地図。赤線が小辺路

小辺路は弘法大師によって開かれた密教の聖地である高野山と、熊野三山の一角である熊野本宮大社とを結ぶ道である。熊野古道の中では、起点から熊野本宮大社までを最短距離(約70キロメートル)で結び、奥高野から果無山脈にかけての紀伊山地西部の東西方向に走向する地質構造を縦断してゆく[1]。そのため、大峯奥駈道を除けば最も厳しいルートである[2]。(→#自然誌参照)

近世以前の小辺路は紀伊山地山中の住人の生活道路であり、20世紀になって山中に自動車の通行できる道路が開通してからも、おおよそ昭和30年代までは使用され続けていた。そうした生活道路が、熊野と高野山を結ぶ参詣道として利用されるようになったのは近世以後のことであり、小辺路の名も近世初期に初出する。小辺路を通行しての熊野ないし高野山への参詣記録は近世以降のものが大半を占め、近世以前の記録もいくつか確認されているが少数である。(→#歴史参照)

高野山(和歌山県伊都郡高野町)を出発した小辺路はすぐに奈良県に入り、吉野郡野迫川村十津川村を通って柳本(十津川村)付近で十津川(熊野川)に出会う。柳本を発って果無山脈東端にある果無峠を越えると和歌山県側に入り、田辺市本宮町八木尾の下山口にたどり着く。ここからしばらくは熊野川沿いに国道168号線をたどり中辺路に合流し、熊野本宮大社に至る。(→#小辺路の峠参照)

古人のなかには全ルートをわずか2日で踏破したという記録もある[3] が、現在では2泊3日または3泊4日の行程とするのが一般的である[4]日本二百名山に数えられる伯母子岳が単独で、または護摩壇山の関連ルートとして歩かれている[5] 他は交通至難であることも手伝って歩く人も少なく、静謐な雰囲気が保たれている。また、高野山から大股にかけてなど著しい破壊の見られる区間(後述)も若干あるものの、良好な状態の古道がまとまって残されている[6] 点も評価されている。

ただ、全ルートの踏破には1000メートル級の峠3つを越えなければならず、一度山道に入ると長時間にわたって集落と行き合うことがないため、本格的な登山の準備が必要で、冬季には積雪が見られるため、不用意なアプローチは危険と言われている[7]
歴史
開創

高野・熊野の2つの聖地を結ぶことから、小辺路は『修験の道』[8] としての性格をも帯びており、修験宿跡や廻峰記念額も残されていると伝えられている[9]。しかし、小辺路の起源は、もともと紀伊山地山中の住人の生活道路として大和・高野・熊野を結ぶ山岳交通路が開かれていた[10] ものが畿内近国と高野山・熊野を結ぶ参詣道として利用され始めたことにあると考えられている[11]

小辺路の生活道路としての形成時期ははっきりしないが、小辺路が通行する十津川村・野迫川村の領域に関係する史料には8世紀に遡るものが見られ[12]、また、周辺に介在する遺跡・史資料などから少なくとも平安期には開創されていたと考えられている[10]。このことを裏付ける傍証として第21代熊野別当であった湛増が高野山往生院に住房を構えていた史実や、現在も小辺路からの下山口である八木尾口(田辺市本宮町)に正慶元年(1332年)に関所が設けられたことを伝える史料の記述(『紀伊続風土記』)[10] がある。さらに正保3年(1646年)付の『里程大和著聞記』[13]郡山藩本多内記高取藩上村出羽守が幕命を受けて紀和国境のルートを調査した文書だが、この中には「中道筋」なる名で小辺路がとり上げられている。中道筋 紀州境やけ尾越ヨリ 同コヘド越マデ道法、是は熊野本宮ヨリ高野ヘ巡礼道 ? 『里程大和著聞記』[10]

『里程大和著聞記』の記述には「道幅一尺」「難所」「牛馬常通不申」といった表現が繰り返し見られ、険しい峰道か峠道、あるいは獣道程度の道でしかなく、困難な道であったことが分かる。また小辺路で最も南にある峠である果無峠は果無山脈東端の峠であることから、果無山脈伝いに龍神方面(田辺市龍神村)からの往来があったという。この道を龍神街道果無越といい、龍神方面と吉野・熊野および高野山とを果無峠および本宮(田辺市本宮町)を経由して結び、修験者や大峯参りの人々が行き交ったと伝えられている[14]

この他、特筆すべきものとして木地師[15][16] や杓子屋[16] の活動の道であることも挙げられよう。木地師とは、山で木を採り椀や盆などの木製品に仕上げる職人で、奥高野から吉野にかけての山域には近江国小椋村(滋賀県東近江市)を本拠地とした江州渡(こうしゅうわたり)木地師と呼ばれた人々が大正の頃までいたという[16]。近世の参詣記にもこうした木地師がいた事が伝えられている。おばこ峠 木地の挽物する者あり、五六人つれて山へ人参堀ニ行く者有〔後略〕 ? 『三熊野参詣道中日記』[17]

木地師たちの本拠地である小椋村では木地師の免状や鑑札を発行するとともに、各地の木地師のもとに奉納金を集める使者を送り出した。その記録として「氏子駈帳」なる文書が残されており、1893年明治26年)まで250年間に渡って計87冊・3万世帯に及ぶ記録が残されている。上に引用した『三熊野参詣道中日記』から10年後にあたる宝暦8年(1758年)付で、3名の木地師の名が記録されている[18]。その他にも野迫川村全体で宝永4年(1707年)から慶応3年(1867年)までの160年間の間に32回の氏子駈の記録がある[19]


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