小林健太
是非お友達にも!
★暇つぶし何某★

[Wikipedia|▼Menu]

この存命人物の記事には検証可能出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。(2014年10月)

「KENTA」はこの項目へ転送されています。俳優については「KENTA (俳優)」をご覧ください。

小林 健太

プロフィール
リングネームヒデオ・イタミ
KENTA
小林 健太
伊丹英雄
本名小林 健太
ニックネームジャパニーズ・センセーション
反骨のダークヒーロー
黒い蹴殺王[1]
身長174cm
体重81kg
誕生日(1981-03-12) 1981年3月12日(37歳)
出身地埼玉県草加市
所属WWE
スポーツ歴野球
トレーナー小橋建太
高山善廣
デビュー2000年5月24日
テンプレートを表示

小林 健太(こばやし けんた、1981年3月12日 - ) は、日本男性プロレスラー埼玉県草加市出身。現在はWWEにヒデオ・イタミ(伊丹英雄、Hideo Itami)のリングネームで所属している[2][3]

日本ではKENTA(ケンタ)のリングネームプロレスリング・ノアに所属していた。


目次

1 来歴

1.1 デビュー以前

1.2 全日本プロレス

1.3 NOAH

1.3.1 新人時代

1.3.2 イケメンタッグ(丸KEN)

1.3.3 GHC ジュニアヘビー級王者時代

1.3.4 ROH参戦・対ヘビー級路線

1.3.5 石森太二とのタッグ結成

1.3.6 シングル王座返り咲き

1.3.7 DIS OBEYからNO MERCYへ


1.4 WWE

1.4.1 NXT

1.4.2 WWE



2 人柄

2.1 人間関係

2.2 エピソード

2.3 趣味


3 主な得意技

3.1 打撃技

3.2 投げ技

3.3 飛び技

3.4 関節技


4 小橋建太との関係

5 タイトル・表彰

6 入場テーマ曲

7 脚注

8 関連項目

9 外部リンク


来歴
デビュー以前

修徳高校時代は野球に打ち込みつつ、遠藤光男(日本アームレスリング連盟会長)の主宰するエンドウズジムに入会。卒業にあたり、遠藤にプロレスラー志望の意を伝えると、遠藤が旧知の小橋建太宛に履歴書を送り、「一般公募オーディションに参加するように」との返事を貰ったとされる。
全日本プロレス

1999年(平成11年)、全日本プロレスが初めて行った一般公募オーディションに参加し、合格する。練習初日、余りの練習の厳しさに合格者が次々と倒れこんでいく中、テレビのインタビュアーに「後悔していませんか?」と訊ねられたところ、「いえ、していません」と答えていた。2000年(平成12年)3月11日、後楽園ホールでのバトルロイヤルでプレ・デビュー。合格者7名の中で唯一、同年5月24日青森県総合運動公園体育館にて、丸藤正道を相手に本名の「小林健太」でデビューする。
NOAH

デビュー直後の2000年(平成12年)6月16日、三沢光晴が中心となり全日本プロレスから分離し旗揚げされたプロレスリング・ノアに移籍。この頃、小橋がリーダーのチーム「バーニング」が崩壊、初代付き人の金丸義信も小橋から離れたのを機に2代目付き人となり、3代目の潮ア豪に引き継ぐまでの約4年間行動を共にすることになる。
新人時代

飛び技主体のスタイルで戦っていたが、その路線には天才と名高い丸藤が居たためいま一つ印象が薄く、当時練習生であった鈴木鼓太郎が自分が出来ない跳び技を軽々やってみせていたことから自分のスタイルに迷いが出てくる。師匠である小橋にオレンジ色を譲り受けるも度重なる怪我で戦列を離れた。自分はジュニア戦士なのだから飛び技を使えなければならないと思い意図的に飛び技を出していたためである。小橋に師事しトレーニングに励み、スタイルもパワーを強調したものになっていった。2002年(平成14年)5月27日、第5代ジュニアヘビー級トーナメント決勝で金丸に肉薄し、それ以降、積み重ねてきたキックボクシングを取り入れたキック中心のスタイルを確立していく。また、リングネームも「KENTA」へ改名する。
イケメンタッグ(丸KEN)

トップに近づくため、丸藤とタッグを組み始める。性格はバラバラで特に仲良くもなかったが、タッグの相性は抜群であり、2003年7月16日、外敵タッグの獣神サンダー・ライガー村浜武洋組を退け初代GHCジュニアヘビー級タッグ王座を獲得した。丸藤の魅せる動きと受け、KENTAのハードヒットという両極端だが非常に分かり易いスタイル、そしてルックスの良さから「イケメンタッグ」あるいは両者の名前から「丸KEN」と称されるようになり、多くの女性ファンを呼び込むことに成功した。ただ見た目が良いだけではなく、試合をすれば必ず名勝負を演じ納得のフィニッシュで勝利を掴むことから、同時期のGHCヘビー級王者の小橋と並んで「名勝負製造機」「ジュニア版絶対王者」と賞され、ノアにおけるジュニアの台頭を生んだ。

2004年(平成16年)、「蹴撃七番勝負」を行ったが、初戦のフベントゥ・ゲレーラ以外は全敗という結果に終わる。2戦目の相手小川良成の持つGHCタッグ王座に挑戦を表明していたが、敗れてしまったために小川から鼓太郎とのタッグでGHCジュニアヘビー級タッグ王座挑戦が決定するもこれを返り討ちにする。この実績から三沢光晴小川良成組が持つGHCタッグへの挑戦が2004年4月25日に決定した(結果は敗北)。

5月7日・8日に行われた第2回ディファカップに丸藤とのタッグで出場。決勝戦でタッグ歴6年を誇る日高郁人藤田ミノル組と35分24秒にも及ぶ激闘を繰り広げ、最後にはブサイクへの膝蹴りで藤田を撃破し優勝を果たした。6月5日には金丸義信・杉浦貴組に敗れ、約2年に渡り9度の防衛に成功したGHCジュニアヘビー級タッグ王座から陥落。
GHC ジュニアヘビー級王者時代

2005年(平成17年)7月18日東京ドームにて金丸が保有するGHCジュニアヘビー級王座に挑戦し奪取に成功する。その後日本国外での防衛戦を経て、2006年(平成18年)1月、先輩である丸藤を相手に防衛戦を行い、同年のベストバウト候補に挙がるほどの死闘を繰り広げ、ついに丸藤越えを果たした。この防衛戦の高い評判により丸藤と共に対ヘビー級路線に駆り出されるようになる。

直後の3月には師である小橋とこれまた激闘を繰り広げるも、小橋のリストクラッチ式バーニングハンマーにより敗れた。

その後も防衛戦を続けるも同年6月杉浦に敗北し1年近く在位していた王座から陥落した。
ROH参戦・対ヘビー級路線

GHCジュニアヘビー級王座からは陥落したものの、かつてタッグを組んでいた丸藤が2006年9月に秋山を破りジュニアでありながらGHCヘビー級王座を戴冠。同年1月にGHCジュニアヘビー級王座の防衛戦で丸藤に勝利していた経緯から初防衛戦の相手として指名され、初のジュニアヘビー級同士によるGHCヘビー級選手権試合が行われた。


ご協力下さい!!
◇暇つぶし何某◇

次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:78 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:FIRTREE