富山県
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近古
鎌倉時代

1183年(寿永2年)

5月9日 - 越中国礪波郡般若野において今井兼平が6千騎を以て平家と戦いこれを破る(般若野の戦い[12]

5月11日 - 源義仲が越中国豪族石黒太郎光弘らを従えて越中国礪波山の倶利伽羅峠平維盛を破る(倶利伽羅峠の戦い[12][97][98]。『平家物語』には「源氏はか様にして日をくらし、平家の大勢を倶利伽羅が谷へ追ひおとさうどたばかりけるを、すこしもさとらずして、共にあひしらひ日をくらすこそはかなけれ。次第にくらうなりければ、北南よりまはツつる搦手の勢一万余騎、倶利伽羅の堂の辺にまはりあひ、箙の方立打ちたゝき、時をどツとぞつくりける。平家うしろをかへり見ければ、白旗雲のごとくさしあげたり(中略)平家、したいにくらうはなる。前後より敵はせめ来る。「きたなしや、かへせ??」といふやからおほかりけれども、大勢の傾きたちぬるは、左右なうとツてかへす事かたければ、倶利伽羅が谷へわれ先にとぞおとしける。まツさきにすすんだる者が見えねば、此谷の底に道のあるにこそとて、親おとせば子もおとし、兄おとせば弟もつづく」と、平家の軍勢が谷底へ落ちていった描写はあるものの有名なる火牛の計の話はみえない[99]。火牛の話がみえるのは『源平盛衰記』であり、「四五百余頭ノ牛ノ角ニ松明ヲ燃シテ、平家ノ陣ヘ追入、胡頽子木原柳原上野辺ニ扣ヘタル軍兵三万余騎、鬨ヲ合喚叫、黒坂表ヘ押寄ル。前後四万騎ガ鬨山モ崩岩モ摧ラント夥シ。(中略)我先我先ト諍ヘ共、西ハ搦手也。東ハ追手也。北ハ岩石高シテ上ルヘキ様ナシ。南ハ深キ谷也、下スヘキ便ナシ。闇サハクラシ案内ハ知ラス、如何カスヘキト方角ヲ失ヘリ(中略)爰ニ不思議ソ有ケル。白装束シタル人三十騎ハカリ南黒坂ノ谷ヘ向テ落セ殿原、アヤマチスナ??トテ深谷ヘコソ打入ケレ、平家是ヲ見テ五百余騎連テ落シタリケレハ、後陣ノ大勢是ヲ見テ、落足カヨケレハコソ先陣モ引カヘサザルラメトテ劣シ劣シト父落セハ子モ落ス云々」とある[12]。巷説に旧東礪波郡五箇山地方はこの戦いに敗れた平家が陰遁した地と言い[23][100]、当地の民謡たる麦屋節及びこきりこ節には「波の屋島をとくのがれ来て薪伐るてふ深山辺に烏帽子狩衣脱ぎ打棄てゝいまは越路の杣刀」という歌詞が残っている[101]

5月12日 - 義仲、2万の軍勢を以て氷見湊を渡り志保山に平家を追撃する(志保山の戦い[99]

8月18日 - 義仲、越中国宮崎に居た北陸宮を皇儲につけようと謀るも失敗する[102][98][103]。この宮は往時、越中国新川郡宮崎にあったといい、『越中旧事記』には「宮崎南山上、後白河院第二の御子以仁親王の御子をは、治承の乱の時、以仁親王の御めのと讃岐前司重秀が北国へぐしまいらせたりけるを、木曽義仲もてなし奉りて、越中の国宮崎といふ所に御所をつくりてすへまいらせ、御元服ありけれは、木曽か宮とも申」と伝える[34]


1185年(元暦2年・文治元年/寿永4年)3月 - 鵜坂神社を正一位に陞叙する[87]

1186年(文治2年)

6月21日 - 頼朝義経及び行家捜索のための越中含む諸国における武士の濫行を禁ずる旨訓令する[104]

11月26日 - 義経を捕縛する旨、令下る[105]。『義経記』によれば義経一行は倶利伽羅峠を越えて越中に入ったが、如意の渡しにおいてその渡の守に一行が義経を引連れているのではないかと嫌疑をかけられた[106]。そこで武蔵坊弁慶は「あれは白山より連れたる御坊なり。年若きにより人怪しめ申す無念さよ。これより白山に戻り候へ」と言って、義経を船から引き摺り下ろし、扇を以て散々に打ちのめした[106]。渡の頭はこれを見て「判官殿にてましまさずは、さにてこそあるべきよ。か程いたはしげもなく、散々に当たり申されし事、併ら私が打ち申したるなり。御いたはしくこそ候へ」と言ってあわれがり、一行は無事渡海して彼岸の六渡寺に着くことができたが、そこで弁慶は「何時まで君を庇ひ申さんとて、現在の御主を打ち奉りつるぞ。天の恐れも恐ろしや。八幡大菩薩も許し御納受し給へ」といって号泣したと言われている[106]。その後、義経等は「いかせ(岩瀬)の渡り、宮崎の岩戸の崎」を経て越後に入ったという[106]


1187年(文治3年)3月2日 - 頼朝が吉田経房より院旨を伝える書状のあったのを以て、越中国吉岡庄の地頭を交替するよう令する[107][108]

1200年(正治2年) - 院宣を以て越中国堀江荘を不輸の地とし神事に勤行させる[109]

1205年(元久2年)9月16日 - 太政官符を以て祇園社領であった越中国黒川郷堀江保の国役等を免ずる[110]

1207年(建永2年・承元元年)2月28日 - 『高田開山親鸞聖人正統伝』によると、この日親鸞に越後へ流罪の宣旨下り、同年3月28日に到着したという(承元の法難[111]。この途上、越中を経由したと伝えられ、『遺徳法輪集』には射水郡光久寺、極性寺、新川郡三日市村徳法寺及びその三本柿に関する縁起を載せており[112]、また浜黒崎の松並木の内には「親鸞上人腰掛け」と伝える松が残る[23]

1221年(承久3年)

5月30日 - 承久の変による戦乱で京方の市河六郎刑部の軍勢を越後国蒲原において鎌倉方が撃破し、越中国宮崎を攻略したという[113]

6月8日 - 同日般若野荘、のち礪波山において官軍賊軍相戦う[25][113]。『吾妻鏡』によると鎌倉方は北条朝時を北陸道大将軍として4万余騎を率いたといい[114]、京方は宮崎定範等北陸の国人が参加していたという[115]。『承久記』曰く、「越中ト加賀ノ堺ニ砥並山ト云所有。黒坂・志保トテ二ノ道アリ。トナミ山ヘハ仁科次郎・宮崎左衛門向ケリ。志保ヘハ糟屋有名左衛門・伊王左衛門向ケリ。加賀国住人林・富樫・井上・津旗、越中国住人野尻・河上・石黒ノ者共、少々都ノ御方人申テ相戦フ。志保ノ軍破ケレバ、京方皆落行ケリ」と[116]


1299年(正安元年) - 慈雲妙意によって臨済宗国泰寺派摩頂山国泰寺が開かれる[117]。初め1296年(永仁4年)慈雲妙意が射水郡二上山に菴居していたところへ孤峯覚明の来り、相伴って紀伊国興国寺に参禅したのを契機に開山されたという[117]

1316年(正和5年) - この年、日印越中に巡錫あり、僧日順を帰依せしめ、婦負郡に本法寺を創建する[23]。当寺の「絹本著色法華経曼荼羅」(国の重要文化財)は、『越中旧事記』によれば「伝て云、此絵図は後醍醐天皇の嘉暦元年の春、越中放生津の浦に夜々光暉あり、是によつて、漁人網をおろして、彼波の下を探りもとむるに、浮木のことくなるものを得たり。破りて是をみるに、二十二の巻軸有、則越中富崎の城主神保八郎左衛門尉に是を献す。時の人何の図会と知ものなし、爰に本法寺の日順法印一々是を演説す。是に依て本法寺に寄附して、永く宝物となれり」という縁起が伝えられている[23][34]

1333年(元弘3年/正慶2年)

2月19日 - 北条高時恒性皇子を越中国に配流しまた同地において守護名越によって弑される[12][118]

5月17日 - 二塚に官軍を邀撃しようと企図した越中国守護名越時有が、大軍来襲の報に接した郎党の落伍によりこれを断念し放生津城に自刃する[119]。『太平記』曰く、「去程ニ、敵ノ早寄来ルヤラン、馬煙ノ東西ニ揚テ候ト騒ゲバ、女房・少キ人々ハ、泣々皆舟ニ取乗テ、遥ノ澳ニ漕出ヌ。ウラメシノ追風ヤ、シバシモヤマデ、行人ヲ波路遙ニ吹送ル。情ナノ引塩ヤ、立モ帰ラデ、漕舟ヲ浦ヨリ外ニ誘ラン。彼松浦佐用姫ガ、玉嶋山ニヒレフリテ、澳行舟ヲ招シモ、今ノ哀ニ被レ知タリ。水手櫓ヲカイテ、船ヲ浪間ニ差留メタレバ、一人ノ女房ハ二人ノ子ヲ左右ノ脇ニ抱キ、二人ノ女房ハ手ニ手ヲ取組デ、同身ヲゾ投タリケル。
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