富山県
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織豊時代

1578年(天正6年)

4月7日 - 織田信長、配下の佐々長龝に命じて神保長住を打具し越中に入らせる[12]。『信長公記』(巻十一、天正六年戊寅四月七日条)曰く、「越中神保殿二条御新造へ被召寄、此比御対面無御座、子細二位法印佐々権左衛門を以て被仰出、黄金百枚並志々良百端被参、輝虎被相果付て飛?国司へ被仰出、佐々権左衛門相添、越中へ入国候也」[170]

10月4日 - 同年9月24日より信長の命によって越中征討を行い、津毛城を落した齋藤利治が、越中月岡野において上杉の手勢を破る(月岡野の戦い[12]。『信長公記』(巻十一)曰く、「九月二十四日、齋藤新五、越中へ被仰付出陣國中、大田保之内つけの城、御敵椎名小四郎、河田豊前守人数入置候。尾張両国之御人数打向之由承及聞落に致退散則つけの城へ神保越中人入置齋藤新五三里程打出陣取候て在々所々へ相働」、また曰く、「十月四日、齋藤新五、越中国中太田保之内本郷に陣取御敵、河田豊前守、椎名小四郎、今和泉に楯籠候。城下迄放火候て未明より被罷退之処に人数を付候。齋藤新五、節所へ引かけ月岡野と云所にて人数立合、既及一戦追崩頸かす三百六十討取り、此競を不休懸まはり所々人質執固神保越中所へ相渡し帰陣候也」[170]


1579年(天正7年)閏3月 - 織田信長により佐々成政が越中に封ぜられ富山城に入る[171]。『三州志』曰く、「七年己卯佐佐内蔵助成政越中一国ヲ賜リ富山城ヘ徒ル」[172]

1580年(天正8年)

4月15日 - 本願寺顕如、勝興寺及びその門徒に信長と和睦した旨を通達する[25]

秋 - この頃大雨あり[171]。国内の河川洪水して、神通川は旧来の呉福山麓の河流を改め富山城東を流れるようになり、常願寺川は大いに出水して富山城下を浸し家屋流出数知れず[171]。佐々成政、これを憂いて治水に尽力し築堤、また洪水によって新たに生れた支川を鼬川と名付け、周辺を開墾して禾穀を植えて田地となす[171]。この時、築かれた堤を「佐々堤」と称し、常西用水川底にのぞく天端部にその痕跡を見ることができるという[173]

11月 - 佐々成政、神通川渡船場の制度を定め、過当なる運賃を禁じ、また過載を戒む[171]


1581年(天正9年)

3月24日 - 越中松倉城に據る河田長親が小井手城を囲み、信長方の佐々成政及び神保長住等はこれが救援のため出兵したので、上杉景勝はその兵を撤せしめる[174]。『信長公記』(巻十四)曰く、「三月六日、神保越中佐々内蔵助?国衆上国候、加賀越前越中三ヶ国之大名衆今度之御馬揃に各在京也。今之透に人数を可出之行に而名誉之ごうの刀作たる松倉と云所に楯籠御敵、河田豊前守以調略。越後より長尾喜平次を呼越、大将として催一揆。佐々内蔵助成政人数入置候小井手之城、三月九日に取詰候」[175]。また曰く、「三月廿四日佐々内蔵佐神通川六渡寺川打越、中郡之内中田と云所へ被懸付候処上方之御人数参陣之由承及。三月廿四日卯尅、御敵長尾喜平次、河田豊前致陣払、小井手表引払火之手を間三里程に見懸。常願寺川、小井手川打越人数被付候へども、早諸手引取候間、不及是非併籠城運を開」[175]

4月 - 『雲龍山勝興寺系譜』によると、この頃勝興寺、顕幸留守中を期した石黒成綱の夜討ちに遭い焼亡したという[176]

5月24日 - 『信長公記』によると松倉城に據る河田長親が病死したといわれる[174]。曰く、「五月廿四日、越中国松倉と申所に楯籠候、御敵河田豊前守病死仕候」[175]


1582年(天正10年)

2月9日 - この日より信長の軍兵越中に入り、上杉景勝方の須賀盛能・秋山定綱はこれを警戒して報告せしにより、景勝は援軍を送りこれを援助させる[176]

3月11日 - 信長方であった小島職鎮唐人親広、景勝に内通し協働して富山城を占拠するが、柴田、佐々、前田の兵によってこれを奪還される[176]。また信長方は進んで魚津、松倉の両城を囲む(魚津城の戦い[176]。『信長公記』曰く、「去程越中国富山之城に、神保越中守居城候然而、今度信長御父子信州表に至而御動座候之処、武田四郎節所を拘、遂一戦悉討果候之間、此競に越中国も一揆令蜂起其国存分に申付候へと有??と越中へ偽申遣候事実に心得、小野六郎左衛門、加老戸式部両人一揆大将に罷成、神保越中を城内へ押籠、三月十一日、富山之城居取に仕近辺に挙煙候不移時、柴田修理亮、佐々内蔵介、前田又左衛門、佐久間玄番頭、此等之衆として富山之一揆城取巻候間落去不可有幾程之旨注進被申上候」[175]

5月23日 - 景勝、魚津・松倉の危殆を聞き、これが救援のため天神山城に布陣し、信長方と黒部に戦う[177]。時に滝川一益森長可越後へ侵入するあり、よって同年同月27日、景勝越後へ撤退する[177]。『三州志』曰く、「二十三日瀧川一益三国嶺ニ到リ森長一大田切ヨリ芋川城ヲ陥シ越後二本木ニ入リ春日山ヲ襲ハント各甲兵ヲ進ムル注進アリ景勝越中ニ在リ之ヲ聞テ驚キ二十七日越後ヘ却ソク」[177]

6月2日 - 景勝の撤退に乗じて、柴田勝家、佐々成政、前田利家等攻城を開始し、この日遂に魚津落城する[177]。『三州志』曰く、「勝家等此機ニ乗シテ火急ニ松倉ヲ攻ム魚津城ハ河田豊前吉江織部ハ固ク之ヲ守リ容易ニ抜クヘカラサルヲ知リテ詭計ヲ以テ柴田専齋佐佐新右衛門二人ヲ質トシ城ヲ挙ケテ開領セハ講和ヲ為ント城将ヘ言送ル河田等吾ヲ欺ムカストオモヒ即チ諾シ成政ヲ内城ニ延キ河田吉江ハ外羅城ニ出ツ即城ノ内外ヨリ河田芳江ヲ挟撃ス二将曁ヒ中條越前寺島六蔵寺血戦苦撃力ヲ窮テ斃レ城遂ニ陥ツ実ニ六月二日ノ平旦也(中略)松倉ノ守兵城上ニ旌槍ヲ羅列シ守禦ノ形勢ヲ伴リナシテ夜越後ヘ走ル織田方ノ諸将之ヲ知ラス妄リニ近ツカズト云フ我公然ラストシ単騎ニテ城下ニ到テ見量ヒ給フニ果シテ空城也因テ斯城弓箭ノ費ナクシテ城ヲ得タリ」[177]。但し、『北越太平記』はこの誘殺のことを載せず、矢尽き糧なくして城中に皆自害したといい、「諸大将いつれも評定し、寄手へ降参を乞、城を渡し、引除ん事、永き弓箭の瑕なり。たとへ主君の命なりとも難レ受所なりと、衆議一同に決しけり。城内掃除以下二三の内に沙汰し六月二日に隙明しかは中城越前の守景資、川田豊前の守長親、石口采女の正實秀、山本寺庄蔵孝長、吉江喜四郎俊長、安部右衛門の尉仲盛、竹の股参河の守朝綱大将物頭十三人広間に居並候て、切腹の用意にて候(中略)寄手の輩、城落て乗入十三人の自害の有様を見て、柴田勝家、佐々成政、前田利家以下舌を振誉ぬ者もなし。皆感涙を流す。是即六月二日の未明なり。此日京都本能寺にて信長公御生害なり。五六日こらへ候はゞ、運を可レ開者と皆残念に思ける」と伝える[178].

6月8日 - 柴田勝家等再び兵を率いて越中を進撃するも、本能寺の変の報至って軍を返す[179]。景勝、これを受けて属将色部長実に越中への出馬を命ずる[179]

6月24日 - 須田満親、松倉城に入って景勝の出兵を請う[179]

6月27日 - 有沢図書助、弓庄城に據る土肥政繁に説諭してこれを景勝方に属せしめる[179]


1583年(天正11年)

2月8日 - 土肥政繁、成政の属城安城下を放火し、また太田新城を攻撃する[180]

4月5日 - この日より土肥政繁、弓庄城において佐々成政の手勢に包囲される[180]。政繁は奮戦よくこれを守るも、同年4月28日、秀吉が成政に景勝と和すべきの由を通達し、よって成政景勝は媾和の運びとなる[181]。故に政繁は妻子郎党を率いて越後に移り、景勝の庇護の下に入る[177]


1584年(天正12年)

8月28日 - この日より徳川家康織田信雄小牧・長久手の戦に呼応して佐々成政挙兵し、先ず前田利家支配下の加賀朝日山を襲撃する[182]。されども同年9月11日、末森城の戦いに敗北して、倶利伽羅方面に退却し兵を越中に収める[182]

9月18日 - 上杉景勝、前田利家に提携し須田満親に命じて宮崎城を攻めさせ、激戦六日に渉ったのちこれを開城させる[183]

11月8日 - 阿尾城の菊池武勝、前田利家に降伏し開城する[184]

11月25日 - 徳川家康・織田信雄、羽柴秀吉に和せるを愁い、佐々成政越中を出発して遠江浜松城の家康を訪わんがため、厳寒の立山連峰を越える[184]。いわゆる「さらさら越え」というは、このことである[185]
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