富山県
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

歴史
先史

富山県では
旧石器時代遺跡は140以上も確認されている。それらの大半は3万年前までの後期旧石器時代のものである。そして、約2万2000年前頃までの前半期には東日本に分布する立つ野ヶ原型ナイフ形石器と呼ばれる石器群が、後半期には国府型ナイフ形石器と呼ばれる瀬戸内系石器群が出土している。本県では、東西の石器文化の影響を受けたことが分かる。また、これらの石器の材料は本県の西部の頁岩系石材とともに、瀬戸内系安山岩であり、当時の人々の広範囲な活動や交流が認められる。

縄文時代 - 氷見市大境洞窟で新石器時代の遺物が発見される。

上代

崇神天皇10年7月 -
四道将軍大彦命高志道を綏撫したといわれる[9]

垂仁天皇23年 - 山辺之大?が垂仁天皇の命ずるところによって鵠を追うて高志国に至ったといわれる[10][11][12]

景行天皇25年7月3日 - 武内宿禰が北陸巡察を行う[13]

成務天皇年間 - 高志国造に市入命を、伊弥頭国造として大河音足尼を任ずる[14]

仲哀天皇元年閏11月4日 - 越国より仲哀天皇へ白鳥を貢ずる[15]。この時、蒲見別王がこれを越国人より奪ったので、仲哀天皇は兵を遣わしこれを誅殺した[15]

573年(敏達天皇2年)5月3日 - 高麗の使人が越海に漂着し、船破れて溺死者が多かったといわれる[16]

574年(敏達天皇3年)5月5日 - 再び高麗の使人が越海に泊り、7月20日上京したといわれる[17]

588年(崇峻天皇2年)7月1日 - 阿部臣が越国国境を視察する[18]

642年(皇極天皇元年)9月21日 - 越国蝦夷が帰順したといわれる[19]

白雉年間 - この頃、鵜坂神社創建という[20]

658年(斉明天皇4年)4月 - 越国守阿倍比羅夫粛慎の征討を開始し[21]、660年(斉明天皇6年)2月には二百艘の船を率いて陸奥・渡島まで遠征したという[22]

698年(文武天皇2年) - 伝承によればこの年、旧婦負郡婦中町各願寺が創建されたという[23]。『肯構泉達録』曰く、「婦負郡長澤山各願寺の草創は文武帝御宇なり越中は天武帝第九皇子経宮の御領地にて経宮又越の宮とも称せり皇子浮屠に帰依まし??て祝髪し給ひ女犯肉食を断ち自仏の像を刻み朝昏供養し給ふ御年三十にして越へ下らせ三川島といふ所に宮を造り暫く爰に在し文武帝即位の年長澤山に伽藍を建立し給ふ是れ各願寺開山自信院一品親王仏性聖人なり」[24]

大宝年間 - この頃までに越国を分かって越前越中越後とする[25]。越国の分立国は『日本書紀』持統天皇6年9月癸丑条に「越前国司献二白蛾一」とあるのを初見としていることから、692年(持統天皇6年)以前に越中国も成立した可能性が高いとされている[23]。また、婦負郡新川郡射水郡礪波郡もこの頃までには成立していたといわれ、703年(大宝2年)以前には頸城郡古志郡蒲原郡魚沼郡も越中の版図に含まれていた[23]

701年(大宝元年) - この頃、越中国の国司である佐伯有頼またはその父佐伯有若によって立山が開山し、雄山神社が開かれたと伝えられる[23]。開山縁起についての最古の文書である『類聚既験抄』には「文武天皇御宇大宝元年始所建立也。相伝云、於立山狩人有之。熊射矢ヲ射立追入出処。其熊乍立矢死了。見之皆金色阿弥陀如来也。仍此山云立山権現也。顕現地獄云々」とあるのみで、誰が開山したかということは記されていない[26]。『伊呂波字類抄』では単に狩人ではなくて熊を射った人物を越中守佐伯有若とし、阿弥陀如来を射てしまったことを契機に出家し諸寺を建立したということになっているが[27]、佐伯有頼を開山の祖とする文献も多く、『和漢三才図会』では佐伯有頼が白鷹を追って奥山に入った際、襲いかかってきた熊を弓で射たところ逃げていったので、これを追っていったところ血を流している阿弥陀如来に出逢い、如来より有頼へ立山を開くようにお告げのあったのが立山開山の謂れであるとしており[28][29]、『立山大縁起』はこの佐伯有頼の出来事を大宝2年のこととしている[30]。また『神道集』は立山開山は大宝3年に教導聖人によって行われたとしている[31]。かくの如く立山開山譚は一様ではないが、佐伯有頼を開山の祖とする縁起が多い[23][32]

703年(大宝2年)

3月甲申 - 越中国に属していた四郡(頸城郡、古志郡、蒲原郡、魚沼郡)を越後国に所属させる[33]

この年、婦負郡常楽寺に文武天皇の勅願によって常楽寺が創建されたという[23]。本尊は行基の作と伝え、『越中旧事記』に「縁起云、文武天皇御勅願、大宝壬寅二年御建立也。本尊十一面観音行基師の作、御堂十一間四面観音を安置す」という[34]


706年(慶雲3年)2月26日 - 越中国の神社が祈年幣帛の例に入る[35]

709年(和銅2年)3月5日 - 越中等諸国より兵を徴発して越後の蝦夷征討を行う[36]

718年(養老2年) - 伝承によればこの年、天竺より僧善無畏三蔵来朝し、礪波郡安居寺を創建したという[23]。『越中旧事記』に「縁起に云、この寺は善無畏三蔵、此所に紫雲立をみて、この寺を発起すとなり。善無畏三蔵は、北天竺の甘露飯王の後胤なり」という[34]

719年(養老3年)

7月9日 - 北陸道等の民二百戸を遷し出羽柵に配する[37]

7月13日 - 初めて按察使を置き、越前国守正五位下多治比広成に能登、越中、越後を管轄させる[38]


725年(神亀2年) - 寺伝によると、北陸巡錫中の僧侶行基によって国内最大の石仏である不動明王像が彫られ真言密宗大岩山日石寺が開かれたという[23][39]。『越中旧事記』曰く、「伝云、昔行基法師諸国に遊行して、仏像を造り給ふ、然るに越中白石と云處にて、東方を臨み見るに、東山の麓に火上石見ゆ、行基直に行て此不動尊を彫刻すといへり」[34]

732年(天平4年)9月5日 - 越中守として田口年足を任ずる(文献上初の越中国国司)[40]

741年(天平13年)

2月14日 - 聖武天皇国分寺建立の詔を渙発し、「毎レ国造二僧寺一」よう命ずる[41]。越中においては現在の高岡市伏木一宮にその遺構があり、県指定史蹟となっている[23]

12月10日 - 能登国羽咋郡珠洲郡能登郡鳳至郡)を越中国に併合する[42][43]


744年(天平16年)9月15日 - 初めて巡察使を畿内七道に派し、従五位下石川東人を北陸道使となす[44]
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:311 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:FIRTREE