富山県
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室町時代

1397年(応永4年)5月2日 - 幕府、越中国守護畠山基国山城国東岩蔵寺領であった越中国太田保内富山郷に諸公事守護役の催促を停止させる[135]。坂井誠一によるとこれが「富山」という地名の初見であるという[136]

1430年(永享2年)6月9日 - 足利義教、正親町三条尹子に越中国富山柳町を与える[25]

1440年(永享12年) - この年、礪波郡福岡に巌照寺が創建されたという[23]。『三州地理誌稿』曰く、「巌照寺 在福岡村。永享十二年本願寺綽如子僧周覚創建」と[87]

1441年(嘉吉元年)1月29日 - 嘉吉の乱によって義教の寵愛を受けていた畠山持永畠山持国より逃れて越中国に没落する[12][137]。同年8月に至り持国越中に派兵して持永これに敗れ、僧となって河内国に逃れるも同地において土民に討たれる[12]

1443年(嘉吉3年)10月28日 - 正親町三条尹子、越中国富山柳町を二尊院に寄附し亡き義教等の冥福を祈る[138]

1450年(宝徳2年)7月16日 - この日越中国に大嵐来り、婦負郡牛岳に怪光あり[12]。『康富記』に「大風大雨雲中牛嶽ト云所ヨリ光物出(其体雲中鬼形有之)、指艮飛行、其間十里許也(山河草木悉損失云々)」という[139]

戦国時代「越中の戦国時代」も参照

1468年(応仁2年) - この年、飛彈国より聞名寺が婦負郡土村に遷る[23]

1471年(文明3年)

3月 - 蓮如来って土山坊を礪波郡土山に開創する[136]。のち1517年(永正14年)7月2日、これを勝興寺と改む[140][141]。『勝興寺文書』曰く、「其御坊御寺号之儀祖師北地御在居之時分於二佐渡国一順徳院御帰依御建立之寺号断絶有レ之儀ニ候之間此度為二相続一其御坊被レ称二勝興寺与一候様ニ被レ仰候此段難レ有可レ被二思召一旨御申入可レ有レ之候恐々謹言」と[140]

この年、礪波郡福光に僧道乗によって光徳寺が創建されたという[23]。『三州地理誌稿』曰く、「光徳寺 在法林寺村、文明三年僧光乗創建」[87]


1475年(文明7年)7月16日 - 礪波郡瑞泉寺に蓮如の巡錫あり、越中における浄土真宗伝播の一契機となる[25]。『賢心物語』曰く、「蓮如上人当寺(瑞泉寺)ヘ文明七年七月十六日御下向ノ時、蓮乗時ノ御住持ナリ、河上ノ衆ヲ始トシテ、当国ノ御門徒衆ウチヨリマカナイ申サレ候、順如ハハジメ申御兄弟衆男女トモニミナ々々御下向候ツルヨシ、了如御物語アリケリ」[25]。またこの年、 富樫政親と争う加賀国一向一揆衆が敗れて井波瑞泉寺に遁走する[142]

1481年(文明13年)春 - 瑞泉寺に據る一向一揆衆、福光城主石黒光義と礪波郡田屋河原に戦って勝し、石黒光義は戦死する(越中一向一揆[32][142]。東大寺文書中に「高瀬地頭方去年御年貢事、連?地下人一向衆以同心之儀、年?過分無沙汰候、殊去年中未進分、春中可致沙汰之由、地下人申候間、其趣内?申処、去三月郡内土一揆不思議企候、地頭方百姓為本人、造意事候間、去年未進之儀一向不及沙汰候、余不可然存条、其後度?指下人、堅申付半候、未一途候、猶?無疎略之儀可申下候、委細安楽坊申入候、此才趣可得尊意候」とあり[143]、この頃当該地域において一向一揆のあったことが窺える[32]

文明年間 - この頃、加賀国河北郡に北陸巡錫中の蓮如が坊舎を建て、後代の実円に至ってこれを礪波郡城端に遷し、善徳寺と号したという[23]。『三州地理誌稿』は1446年(文安3年)に僧実圓が礪波郡城端に善徳寺を創建したという説を載せている[87]


1488年(長享2年)6月9日 - 石川郡高尾城に據る富樫政親を加越能の百姓攻めて政親が城内において自害する(加賀一向一揆[12]。『後法興院記』曰く「伝聞、去八日於加州冨樫介生涯云々、加賀国一揆衆、其外能登越中之一揆衆相加間及数万人云々」[144]。『朝倉始末記(賀越闘諍記)』曰く「長享二年ニ、賀州ハ申ニ不レ及、能登越中諸国ノ類葉ニ籌策ヲ廻(メグラシ)、一揆悉ク打莅(ウチノゾン)デ、富樫ガ城ノ四面ヲ取巻キ、昼夜数日火水ニナレト攻ケル程ニ、富樫既ニ負テ、城中ニ於テ、九月九日ニ腹ヲゾキラレケル」[145]

1493年(明応2年)6月28日 - 明応の政変に伴い室町幕府10代将軍足利義材が下向し、放生津城主神保長誠の支援を受け5年間滞在する[25][146]。『後法興院記』(明応二年七月十六日条)曰く、「伝聞、今出川殿下向越中云々、神保致警固間近国少々申御体云々、高運之至也、天下安危在此時乎」[147]。『親長卿記』(明応二年七月一日条)曰く、「陰晴、今日或仁云、去夜将軍(義材、当時人々号正覚寺御所)俄御逐電、不知其行方、去四月自河州陣御上洛之後、奉押籠上原左衛門大夫許了、後聞、落留越中給云々」[148]。これより1498年(明応7年)まで義材を中心とする政権が越中国射水郡放生津正光寺にあったがこれを越中公方と称し[32]、往時小幕府の体をなしたりといわれる[23]

1494年(明応3年) - この年、「貞享二年寺社由緒書上」によると礪波郡に万福寺が創建されたという[23][149]

1498年(明応7年)9月2日 - 足利義材上洛を図って越中国より越前国朝倉氏邸に至る[25]。『後法興院記』(明応七年九月五日条)曰く、「伝聞、越中大樹近日可有上洛云々、去二日越前朝倉館ニテ被越云々、和睦之儀云々」[147]

1502年(文亀2年) - この年、旧東礪波郡平村上梨に鎮座する白山宮本殿が創建される[23]。建築年次の明らかなる建築物としては県内最古のものであるという[23][150]

1506年(永正3年)

7月15日 - 加越能の一向宗門徒、一統に蜂起して越前に来襲する[25]。『朝倉始末記(賀越闘諍記)』曰く、「去程ニ「悪将ハ悪鬼ヲ請ジ、悪鬼ハ災異ヲ生(シヤウズ)」ト云ヘバ、時日ヲ不レ移、類葉馳集ル。然則、去永正三年七月十五日ニ、越前国中ノ一揆、越中・能登一統ニ蜂起シテ、川ヨリ北ニ打入、在々処々ヲ放火シテ兵庫・長崎、村々里々ニ陣ヲ取ル」[145]

9月19日 - 越中一向一揆勢が越後の上杉房能配下なる長尾能景の軍を破り、能景は同地において敗死する(栴檀野の戦い[25]


1509年(永正6年)7月28日 - 上杉顕定上杉憲房の軍、坂東の兵を率いて越後の長尾為景を攻め、為影は越中に逃れて幕府及び伊達尚宗に援軍を請う[151]

1516年(永正13年)9月9日 - 越後国守護代長尾為景、越中国において神保慶宗と相戦う[152]

1519年(永正16年)10月6日 - 再び越後国守護代長尾為景、加賀の畠山勝王と提携し越中国新川郡境川において神保慶宗と戦って勝ち、進んで婦負郡二上城に至る[153]
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