富山県
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地域区分富山市高岡市魚津市氷見市滑川市黒部市砺波市小矢部市南砺市射水市1上市町立山町入善町朝日町 富山県の自治体 /  表示 
略数字 : 1.舟橋村

伝統的に富山平野の中央部にある呉羽丘陵を境に東を呉東(ごとう)、西を呉西(ごせい)と呼んでいた。現在では市町村界によって区切った県東部・県西部という名称も使われている[6]。おおむね呉東・呉西に一致するが、富山市の呉羽地区及び婦負地区(旧婦負郡)の一部は呉西でありながら県東部に属する。また、富山市婦負地区は、かつて気象庁の地方区分では県西部(西部婦負)に属していたが、行政区分との統一を図るため2006年3月1日より同市他地区と同じ県東部(東部南)へ管轄変更となった。

県東部から新川地区と富山地区、県西部を高岡・砺波地区とする3区分と南北に更に高岡・射水地域と砺波・小矢部地域として4地域にする表記がある[7][8]

以下の10市(2郡)4町1村の自治体がある(平成の大合併以前は9市(7郡)18町8村(2003年時点))。「町」の読みは全て「まち」だが、地元の人々の中で「ちょう」と読む人が多くいる。「村」の読みは全て「むら」。ちなみに自治体の数は日本の都道府県で一番少ない。

自治体 富山市 魚津市 高岡市
富山県東部(呉東)
富山地区


富山市

滑川市

中新川郡

上市町

立山町

舟橋村


新川地区


魚津市

黒部市

下新川郡

朝日町

入善町


富山県西部(呉西)
高岡地区


高岡市

射水市

氷見市

砺波地区


砺波市

小矢部市

南砺市

歴史
先史

富山県では
旧石器時代遺跡は140以上も確認されている。それらの大半は3万年前までの後期旧石器時代のものである。そして、約2万2000年前頃までの前半期には東日本に分布する立つ野ヶ原型ナイフ形石器と呼ばれる石器群が、後半期には国府型ナイフ形石器と呼ばれる瀬戸内系石器群が出土している。本県では、東西の石器文化の影響を受けたことが分かる。また、これらの石器の材料は本県の西部の頁岩系石材とともに、瀬戸内系安山岩であり、当時の人々の広範囲な活動や交流が認められる。

縄文時代 - 氷見市大境洞窟で新石器時代の遺物が発見される。

上代

崇神天皇10年7月 -
四道将軍大彦命高志道を綏撫したといわれる[9]

垂仁天皇23年 - 山辺之大?が垂仁天皇の命ずるところによって鵠を追うて高志国に至ったといわれる[10][11][12]

景行天皇25年7月3日 - 武内宿禰が北陸巡察を行う[13]

成務天皇年間 - 高志国造に市入命を、伊弥頭国造として大河音足尼を任ずる[14]

仲哀天皇元年閏11月4日 - 越国より仲哀天皇へ白鳥を貢ずる[15]。この時、蒲見別王がこれを越国人より奪ったので、仲哀天皇は兵を遣わしこれを誅殺した[15]

573年(敏達天皇2年)5月3日 - 高麗の使人が越海に漂着し、船破れて溺死者が多かったといわれる[16]

574年(敏達天皇3年)5月5日 - 再び高麗の使人が越海に泊り、7月20日上京したといわれる[17]

588年(崇峻天皇2年)7月1日 - 阿部臣が越国国境を視察する[18]

642年(皇極天皇元年)9月21日 - 越国蝦夷が帰順したといわれる[19]

白雉年間 - この頃、鵜坂神社創建という[20]

658年(斉明天皇4年)4月 - 越国守阿倍比羅夫粛慎の征討を開始し[21]、660年(斉明天皇6年)2月には二百艘の船を率いて陸奥・渡島まで遠征したという[22]

698年(文武天皇2年) - 伝承によればこの年、旧婦負郡婦中町各願寺が創建されたという[23]。『肯構泉達録』曰く、「婦負郡長澤山各願寺の草創は文武帝御宇なり越中は天武帝第九皇子経宮の御領地にて経宮又越の宮とも称せり皇子浮屠に帰依まし??て祝髪し給ひ女犯肉食を断ち自仏の像を刻み朝昏供養し給ふ御年三十にして越へ下らせ三川島といふ所に宮を造り暫く爰に在し文武帝即位の年長澤山に伽藍を建立し給ふ是れ各願寺開山自信院一品親王仏性聖人なり」[24]

大宝年間 - この頃までに越国を分かって越前越中越後とする[25]。越国の分立国は『日本書紀』持統天皇6年9月癸丑条に「越前国司献二白蛾一」とあるのを初見としていることから、692年(持統天皇6年)以前に越中国も成立した可能性が高いとされている[23]。また、婦負郡新川郡射水郡礪波郡もこの頃までには成立していたといわれ、703年(大宝2年)以前には頸城郡古志郡蒲原郡魚沼郡も越中の版図に含まれていた[23]

701年(大宝元年) - この頃、越中国の国司である佐伯有頼またはその父佐伯有若によって立山が開山し、雄山神社が開かれたと伝えられる[23]。開山縁起についての最古の文書である『類聚既験抄』には「文武天皇御宇大宝元年始所建立也。相伝云、於立山狩人有之。熊射矢ヲ射立追入出処。其熊乍立矢死了。見之皆金色阿弥陀如来也。仍此山云立山権現也。顕現地獄云々」とあるのみで、誰が開山したかということは記されていない[26]。『伊呂波字類抄』では単に狩人ではなくて熊を射った人物を越中守佐伯有若とし、阿弥陀如来を射てしまったことを契機に出家し諸寺を建立したということになっているが[27]、佐伯有頼を開山の祖とする文献も多く、『和漢三才図会』では佐伯有頼が白鷹を追って奥山に入った際、襲いかかってきた熊を弓で射たところ逃げていったので、これを追っていったところ血を流している阿弥陀如来に出逢い、如来より有頼へ立山を開くようにお告げのあったのが立山開山の謂れであるとしており[28][29]、『立山大縁起』はこの佐伯有頼の出来事を大宝2年のこととしている[30]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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