天正
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この項目では、日本の元号について説明しています。天正の他の用法については「天正 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

天正(てんしょう)は日本元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年[1](ユリウス暦1592年)。

この時代の天皇正親町天皇後陽成天皇征夷大将軍足利義昭


目次

1 改元

2 出典

3 西暦の改暦

4 天正年間の出来事

4.1 誕生

4.2 死去


5 西暦との対照表

6 脚注

7 関連項目


改元

元亀4年
7月28日ユリウス暦1573年8月25日) 戦乱などの災異のため改元

天正20年12月8日グレゴリオ暦1593年1月10日、ユリウス暦1592年12月31日) 文禄に改元

足利義昭京都から追放した織田信長が、公卿朝廷を通じて改元させることに成功したと言われ、『お湯殿上日記』元亀4年7月21日条(義昭追放の3日後・改元の7日前)にも、信長から改元の奏請があったことが記されている。ただし、朝廷では改元についての議論が既にその1年以上前から行われており、『お湯殿上日記』元亀3年3月29日条には改元の発議を知らせる使者が信長と義昭の元に派遣されていることが記されている。だが、「元亀」改元を奏請したとされている足利義昭はこれに反発して改元にかかる経費の拠出を拒み(『お湯殿上日記』元亀3年4月20日条)、9月に信長が義昭を非難するために作成した『異見十七ヶ条』でも批判の対象とされている。また、年号勘文はすでに元亀3年11月11日付で作成されている。なお、改元時に朝廷では信長に勘文を見せてその意向に応じて元号を「天正」と定めており、信長が武家政権の長として改元に容喙した事実は織田政権の開始を象徴する出来事であった。反面、改元の実施日や元号の実質的な選考作業と言える勘文の作成に信長が関与した事実は確認できず、あくまでも朝廷の意向を尊重するという形式を取った改元であった[2]
出典

文選』の「君以下為基、民以食為天、正其末者端其本、善其後者慎其先」と『老子』の「清静者為天下正」から。勧申者は元亀と同じく高辻長雅で、この時の候補の中に既に天正が含まれていた。
西暦の改暦詳細は「グレゴリオ暦」および「Wikipedia:表記ガイド#年月日・時間」を参照

天正10年(1582年)、ヨーロッパで用いられる暦(西暦)は、カトリック教会が主導してユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦が実施された。近代以前の日本の暦における日付を西暦に換算する場合にはこの事を念頭に置く必要性がある。ただし、グレゴリオ暦の導入状況は国によって異なり、カトリック諸国(イタリア、スペイン、ポーランドなど)では早く、プロテスタント諸国(ドイツ、オランダ、北欧など)や独自の国教を持つ国(イギリス、ロシア、ギリシャなど)では後れた。

グレゴリオ暦の実施が最も早かった国々では、ユリウス暦1582年10月4日木曜日)の翌日を、グレゴリオ暦1582年10月15日金曜日)とすることによって使用が開始されている。

日付対応表和暦
宣明暦西暦ユリウス通日
ユリウス暦
(旧暦)グレゴリオ暦
(新暦)
 天正10年9月18日 1582年10月4日(木曜日)?2299160
天正10年9月19日1582年10月5日(金曜日)1582年10月15日(金曜日)2299161
天正10年9月20日1582年10月6日(土曜日)1582年10月16日(土曜日)2299162

なお、日本の暦は、明治6年1月1日(1873年1月1日)に太陽暦(グレゴリオ暦)を採用するまで、西暦と日付がずれる。また、西暦についても、ユリウス暦からグレゴリオ暦への移行は国ごとに異なっていることを念頭に置く必要がある[3]

日付対応表和暦西暦ユリウス通日
天保暦
旧暦)現行暦[4]
新暦ユリウス暦
(旧暦)グレゴリオ暦
(新暦)
明治5年12月2日?1872年12月19日(火曜日)1872年12月31日(火曜日)2405159
12月3日)明治6年1月1日(水曜日)1872年12月20日(水曜日)1873年1月1日(水曜日)2405160
12月4日)明治6年1月2日(木曜日)1872年12月21日(木曜日)1873年1月2日(木曜日)2405161

天正年間の出来事

元年(1573年)

8月1日 - 武田高信因幡国甑山城に籠る山中幸盛を攻撃し、惨敗(鳥取のたのも崩れ

8月20日 - 朝倉義景織田信長に攻められ自害(一乗谷城の戦い

8月28日 - 浅井長政小谷城を織田信長に攻められ自害(前日には父の浅井久政も自害)(小谷城の戦い

12月26日 - 松永久秀が織田信長に降伏


2年(1574年)

1月19日 - 越前国一向一揆越前一向一揆)、守護代桂田長俊が自害

9月29日 - 長島一向一揆が鎮圧される


3年(1575年)

5月 - 三河国長篠城武田勝頼が攻囲

5月21日 - 設楽原で織田信長軍と徳川家康軍が武田勝頼軍と激突、武田軍が敗走(長篠の戦い


4年(1576年)

4月16日 - 武田信玄の葬儀が甲斐国恵林寺で営まれる

7月 - 山田重直伯耆国羽衣石城下において福山茲正らを殺害


5年(1577年)

2月22日 - 織田信長が雑賀衆を攻撃

9月15日 - 上杉謙信能登国七尾城を攻略

9月23日 - 手取川の戦いで、上杉謙信が織田軍に大勝

10月10日 - 松永久秀松永久通父子が織田信長に攻められ信貴山城で自害(信貴山城の戦い

11月20日 - 織田信長が右大臣に就任

12月3日 - 羽柴秀吉播磨国上月城を攻略


6年(1578年)

3月13日 - 上杉謙信が死去

4月9日 - 織田信長が右大臣・右大将の職を辞任

5月13日 - 御館の乱が起こる


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