塩谷氏
是非お友達にも!
◇暇つぶし何某◇

[Wikipedia|▼Menu]

塩谷氏(しおやし・しおのやし[1])は、日本の氏族。宇多源氏塩冶氏(えんやし)とは別である。


目次

1 源姓塩谷氏

1.1 堀江氏

1.2 喜連川源姓塩谷氏


2 藤姓塩谷氏

2.1 重興塩谷氏(再興塩谷氏)

2.2 佐竹家臣時代


3 源姓・藤姓系譜

4 児玉党系塩谷氏

4.1 安芸塩谷氏

4.2 同族


5 脚注

6 参考文献


源姓塩谷氏

塩谷氏(堀江氏)

本姓清和源氏
家祖堀江頼純
種別武家
主な根拠地下野国塩谷郡
凡例 / Category:日本の氏族

堀江氏

源姓塩谷氏(堀江氏)歴代初代塩谷頼純(堀江頼純)
2代塩谷惟純(堀江惟純)[2]または頼賢[3]
3代塩谷惟頼(堀江惟頼)
4代塩谷正義(堀江正義)
5代塩谷朝義(堀江朝義)

塩谷荘を支配したと伝わる清和源氏の一族。塩谷氏の系譜や伝承・軍記物にみられ、かつては伝説の存在とされたが、現在では存在していた可能性が高いと推定される。ただし存在を裏付ける確実な同時代史料は存在していない[4]

『矢板市史』によれば、源義親の子である堀江頼純が、父のために流罪となり、大治5年(1130年)頃に下野国塩谷郡に下り塩谷荘司として塩谷姓を名乗ったのが始まりと伝わる。但し、その頃には頼純は没している可能性が高く、矢板市史のこの見解については、年代の整合性を検討する必要がある。なお系図の所伝では、「喜連川塩谷系図」[3]は義親の討伐後に頼純が下野へ流罪となり孫の惟頼が塩谷少将を名乗ったという所伝を記載し、一方「秋田塩谷系譜」[2]は、堀江頼純が大治5年に塩谷荘司として塩谷姓を名乗ったとする。

塩谷荘33郷3万8千町を支配した。居城は『堀江山城[5]と『御前原城[6]の両説がある。しかし、御前原城の築城年代には二説あり、一説は、築城者とされる塩谷頼純が存命しない治承寿永年間(1177年?1183年。間に養和の年号あり)の築城とする説であり矛盾があるため、この点において、もう一説の正安4年(1315年)説が有力とされており、この場合、堀江氏の時代には、御前原城は存在していないことになる。しかも、仮に治承寿永年間の御前原築城の年代が正しかったとしても、塩谷氏は、その半世紀も前から塩谷郡を支配しており、当然、御前原築城以前の居城があったはずで、少なくとも御前原城は、塩谷氏の最初の居城とはなりえず、この点からも塩谷氏の居城は、堀江山城とするのが有力とされている。一方、堀江山城説では、のちに御前原城となる旧塩谷郡衙に塩谷頼純が滞在した後、堀江山城を築いて移り、5代の間、堀江山にあったとする。堀江山の名前も、堀江氏の堀江山城居城説の有力な根拠のひとつとなっている。

菩提寺は、奉り墓として寺山観音寺、埋め墓として六房寺の両墓制であったと言われているが定かではない。

5代目朝義に子が無かったため、宇都宮業綱の次男竹千代(朝業)を養子に迎え家督を相続させ、源姓塩谷氏の時代は終焉する。
喜連川源姓塩谷氏

喜連川塩谷氏

本姓清和源氏
家祖塩谷惟広
種別武家
主な根拠地下野国塩谷郡
凡例 / Category:日本の氏族

源姓塩谷氏(喜連川源姓塩谷氏)歴代初代塩谷惟広(塩谷五郎)
2代塩谷惟守(塩谷三郎)
3代塩谷惟義(塩谷弥次郎)
4代塩谷惟縄

しかし、本家では源姓塩谷氏は断絶したが、その血統は、塩谷惟純の次男惟広[7]の子孫によって維持された。同じ塩谷郡の喜連川の大蔵ヶ崎城を中心に三千町の領地[8]を支配し、源姓塩谷氏の血統を守り、惟広は治承・寿永の乱(源平合戦)に参戦して戦功を挙げ[9]、鎌倉幕府に源姓塩谷氏の地位を確立していくが、その子惟守が和田合戦において、和田義盛に同調して討死すると、喜連川塩谷氏は鎌倉において地位を失い、その勢力が大きく衰退する。そして、惟守の甥である4代惟縄の時、惟縄に嗣子がなかった事から、藤姓塩谷氏から塩谷忠朝[10]を婿養子に迎えて家督を継がせる事になり、ここに惟広の子孫により辛うじて守られてきた源姓塩谷氏の血統も断絶し、源姓塩谷氏は完全に途絶えた。


◇ピンチです!◇
★暇つぶし何某★

[次ページ]
[記事の検索]
[おまかせリスト]
[ブックマーク登録]
[mixiチェック!]
[Twitterに投稿]
[オプション/リンク一覧]
[話題のニュース]
[列車運行情報]
[暇つぶしWikipedia]

Size:43 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:FIRTREE