城柵
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復元された払田柵南門。

城柵(じょうさく)は、7世紀から11世紀までの古代日本において大和朝廷(ヤマト政権、中央政権)が築いた軍事的防御施設である。

現代の歴史学では特に北東と南西の辺境に置かれた政治行政機能を併せ持つものに限って言うことが多い。個々の城柵は、「多賀柵」など「柵」の字を付ける場合と、「多賀城」など「城」の字を付ける場合があり、城も柵も「き」と呼んでいた。北東は蝦夷、南西は隼人に対する備えとして置かれ[注 1]、対朝鮮中国の城に比べると防備が弱く、行政施設としての性格が強いのが特徴である。

なお、前九年の役後三年の役安倍氏清原氏が軍事拠点として設置した柵は成り立ちや性格が異なるので、一般的にはここで言う「城柵」には含めない。
目次

1 日本海側の城柵

2 太平洋側の城柵

3 城柵の役割

4 城柵の景観

5 主な城柵一覧

6 脚注

6.1 出典


7 参考文献

8 関連項目

日本海側の城柵 復元された秋田城外郭東門。

647年大化3年)、渟足柵が現在の新潟市沼垂付近に設置されたのが記録に残る初見である。翌、648年(大化4年)には磐舟柵が現在の村上市岩船付近に設置された。また、658年斉明天皇4年)には都岐沙羅柵という名が『日本書紀』に記されているが、いつどこに設置されたのかは全く不明である。さらに、『続日本紀』の和銅2年7月1日709年8月10日)の条に出羽柵に武器を運搬したとの記載があることから、その時点には出羽柵が存在したことがわかる。出羽柵は出羽郡(現・庄内地方)に設置されたと思われるが、詳しい位置については不明である。また、708年(和銅元年)には越後国に出羽郡が設けられていることから、この前後の設置であろうと推定されている。712年(和銅5年)、出羽郡は出羽国に昇格し、出羽柵が国府とされた。その後、出羽柵は734年2月4日天平5年12月26日)に現・秋田市相当地域に移設され、秋田城と改名されたと見られる。しかし、蝦夷の居住地域の真ん中に設置されたことから、蝦夷との抗争のなかでたびたび攻撃を受けた。このため、804年延暦23年)に国府を「河辺府」に移設したとされる。ただし、秋田城は放棄されず、軍事機能を強化して出羽介が駐在して指揮した。このことから、のちに出羽介は「秋田城介」と呼ばれるようになる。また、国府の移設場所には様々な説があるが、最終的には現・酒田市相当地域にある城輪柵に移設されたと見られている。また、759年天平宝字3年)には雄勝郡雄勝城が設置されている。雄勝城の詳細な位置は不明で、払田柵跡をそれに比定する意見もあるが、払田柵跡は記録に現れていない城柵であるという意見が有力である。
太平洋側の城柵 多賀城の正殿跡。

724年神亀元年)大野東人によって多賀城が設置された。それ以前の陸奥国国府は現代の仙台市長町副都心にある郡山遺跡であると見られている。

『続日本紀』の天平9年(737年)の記事には多賀柵、玉造柵、色麻柵、新田柵、牡鹿柵の名が見られ、当時多賀城が多賀柵と呼ばれていたこと、ほぼ同時に現・宮城県相当地域内に4つの城柵が設けられたことがわかっている。

8世紀後半になると桃生城、伊治城、覚鱉城(かくべつじょう)などが設けられる。9世紀にはいると現在の岩手県地域にも城柵が作られ始め、802年延暦21年)、坂上田村麻呂によって胆沢城が設置され、鎮守府が多賀城から移された。翌年には志波城が設置されたが、雫石川氾濫によってたびたび被害を受けたことから、811年弘仁2年)に廃絶され、徳丹城に移設された。
城柵の役割

城柵は蝦夷隼人との戦争に備えた軍事施設であり、同時に辺要の政治・行政施設としての機能も持っていた[注 2]。律令政府の配下に置かれた辺境には内国から柵戸と呼ばれる多くの移民が送り込まれたが、それらの移民の拠点、支配するための官衙、配下に置いた俘囚(服属蝦夷)が朝貢したり、それに対する饗応をする役目も負っていた。秋田城についてはこれらの機能に加えて渤海等の外国使節の饗応や北方諸民族との交易の場が設定されていたのではないかとする見解が、発掘結果等を踏まえて出されている。

それに対応するために各城柵には国司四等官・史生、鎮官(鎮守府官人)[注 3]などが城司(城主)に任命され、城柵を支配した。城司の権限は大きく、国司の権限を分掌し、設置された辺郡の郡司や辺郡内に居住する俘囚を支配し、鎮兵や俘囚により編成された俘軍の指揮権を持った。

8世紀には鎮官を兼任する国司が、9世紀から両官が別々に任命されて城司となった。国司・鎮官は中央政府が派遣した官人であるから、国府機関の性質も兼ね備えていた。また、軍事力として奥羽両国から徴発され、城柵に番上(交替)勤務する軍団兵士と坂東諸国を中心に他国の兵士を徴発した令外官鎮兵が駐屯し、長上(連続)勤務した。城柵鎮守において前者が基幹的、後者が補完的制度である。

移民である柵戸は城柵の周辺に出身地域ごとに居住地を定められ、周辺を開墾したと見られている。それを示すように、古代奥羽の郷名には板東と共通するものが見られる。しかし、柵戸の生活は厳しく、逃亡するものも多かった。移住後定着のために1?3年間調庸などの租税を免除されたが、その後は公民として租庸調、兵士雑徭、公出挙などの諸負担をおった。[1]

陸奥では中央に貢納する調の貢納が免除され、城柵の運営財源として使用された。811年弘仁2年)には陸奥出羽で百姓の墾田を収公するのを禁じる太政官符が出されたことが『類聚三代格』からわかる。そのほかにもたびたび柵戸の租税の一部を免除する布告を出し、慰留に努めている。しかし、征夷政策の収束と共に10世紀頃から急速に城柵は廃れ、11世紀には史料上からも考古学的成果からも消滅することが確認されている。10世紀頃から俘囚と移民の混雑が進み、城柵の役割が終わったものと見られる。それと共に俘囚長と呼ばれる安倍氏清原氏などが台頭する。
城柵の景観 秋田城政庁(第1期・733年?770年頃)の復元模型 復元された払田柵の外柵(材木塀)

考古学上の成果によると、一般的な城柵は小高い丘の上に官衙が設置され、その周辺に鎮兵の住居を配置し、周囲に土塁、材木列などを巡らし、望楼を設けて防御を固めている。また、周辺には移民の開拓地が置かれ、有事には移民は城柵に避難したようである。

養老令』には以下の記述があり、考古学の成果とほぼ一致する。凡縁東辺北辺西辺諸郡人居 皆於城堡内安置  其営田之所 唯置庄舎  至農時堪営作者 出就庄田 謂 強壮者出就田舎 老少者留在堡内也 収歛訖勒還 謂 要勒而還於城堡也

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