回天
[Wikipedia|▼Menu]

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2013年12月)

この項目では、太平洋戦争大東亜戦争)中の特別攻撃隊について説明しています。幕末の艦船については「回天丸」をご覧ください。
遊就館に展示されている回天一型改一。国内では唯一の実物。ハッチの開閉は手動では内部からしか出来ず、外部からは下部ハッチを六角レンチで、上部を十字の突起を工具で回した。回天一型の上部ハッチ整流版に描かれた特攻の艦章「菊水」。菊水は大楠公旗印から。

回天(かいてん)は、太平洋戦争大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり[1]、日本軍初の特攻兵器である[2]


目次

1 特徴

2 操縦方法

3 歴史

3.1 開発段階

3.2 運用開始

3.3 実戦投入

3.4 回天特別攻撃隊菊水隊

3.5 回天特別攻撃隊金剛隊

3.6 その後


4 戦果

5 部隊

5.1 搭乗員

5.2 基地

5.3 搭載母艦


6 各型

7 主題にした作品

8 参考文献

9 脚注

9.1 注釈

9.2 出典


10 関連項目

11 外部リンク


特徴回天四型。ハワイのUSSボーフィン潜水艦博物館に展示。

「回天」という名称は、特攻部長大森仙太郎少将が幕末期の軍艦回天丸」から取って命名した[3]。開発に携わった黒木博司中尉は「天を回らし戦局を逆転させる(天業を既倒に挽回する)[4]」という意味で「回天」という言葉を使っていた[5]。秘密保持のため付けられた〇六(マルロク)[1][6]、的(てき)との別称もある。

1944年(昭和19年)7月に2機の試作機が完成し、11月20日のウルシー環礁奇襲で初めて実戦に投入された[7]。終戦までに420基が生産された[8]。兵器としての採用は1945年(昭和20年)5月28日のことだった[1][9]

回天は超大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」を改造し、特攻兵器としたものである[6]。九三式三型魚雷は直径61cm、重量2.8t、炸薬量780kg、時速48ノットで疾走する無航跡魚雷で、主に駆逐艦に搭載された。回天はこの酸素魚雷を改造した全長14.7m、直径1m、排水量8tの兵器で、魚雷の本体に外筒を被せて気蓄タンク(酸素)の間に一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けた。炸薬量を1.5tとした場合、最高速度は時速55km/hで23キロメートルの航続力があった。ハッチは内部から開閉可能であったが、脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかった。

回天が実戦に投入された当初は、港に停泊している艦船への攻撃、すなわち泊地攻撃が行われた。最初の攻撃(玄作戦)で給油艦ミシシネワが撃沈されたのをはじめ、発進20基のうち撃沈2隻(ミシシネワ、歩兵揚陸艇LCI-600)、撃破(損傷)3隻の戦果が挙げられている。アメリカ軍はこの攻撃を特殊潜航艇「甲標的」による襲撃と誤認し、艦上の兵士はいつ攻撃に見舞われるかという不安にかられ、泊地にいても連日火薬箱の上に坐っているような戦々恐々たる感じであったという[10]。しかし、米軍がこまめに防潜網を展開するようになり、泊地攻撃が難しくなってからは、回天による攻撃は水上航行中の船を目標とする作戦に変更された。この結果、搭乗員には動いている標的を狙うこととなり、潜望鏡測定による困難な計算と操艇が要求された。

回天の母体である九三式三型魚雷は長時間水中におくことに適しておらず、仮に母艦が目標を捉え、回天を発進させたとしても水圧で回天内部の燃焼室と気筒が故障しており、エンジンが点火されず点火用の空気(酸素によるエンジン爆発防止の為に点火は空気で行われた)だけでスクリューが回り出す「冷走」状態に陥ることがあった。この場合、回天の速力や射程距離は大幅に低下し、また搭乗員による修理はほぼ不可能であったため、出撃を果たしながら戦果を得ることなく終わる回天が多く出る原因となった。また最初期は潜水艦に艦内からの交通筒がなかったため、発進の前に一旦浮上して回天搭乗員を移乗させねばならなかった。当然のことながら敵前での浮上は非常に危険が伴う。回天と母潜水艦は伝声管を通じて連絡が可能だったが、一度交通筒に注水すると、浮上しない限り回天搭乗員は母潜水艦に戻れなかった[11]。また、エンジンから発生する一酸化炭素や、高オクタン価のガソリンの四エチル鉛などで内部の空気が汚染され、搭乗員がガス中毒を起こす危険があることが分かっていたが、これらに対して根本的な対策はとられなかった[12]

潜水艦は潜れば潜るほど爆雷に対して強くなるが、回天の耐圧深度は最大でも80メートルであったため、回天の母艦となる伊号潜水艦はそれ以上は深く潜行する場合は回天を破損する覚悟が必要であり、敵に発見された場合も水中機動に重大な制約を受けた。そのためアメリカ側の対潜戦術、兵器の発達とあいまって出撃した潜水艦16隻(のべ32回)のうち8隻が撃沈されている。戦争最末期に本土決戦が想定された際は、回天も水上艦を母艦とすることが計画され、海上挺進部隊球磨型軽巡洋艦3番艦「北上」をはじめとして松型駆逐艦等)や一等輸送艦が改造された。また局地防衛のため、突撃隊などの沿岸防備部隊にも配備された[1]
操縦方法

操作方法は、搭乗員の技量によるところが多かった。

手順としては、突入直前に潜望鏡を使用して敵艦の位置・速力・進行方向を確認、これを元に射角などを計算して敵艦と回天の針路の未来位置が一点に確実に重なる、すなわち命中するように射角を設定。同時に発射から命中までに要する時間を予測。そして潜望鏡を下ろし、ストップウォッチで時間を計測しながら推測航法で突入する。命中時間を幾分経過しても命中しなかった場合は、再度潜望鏡を上げて索敵と計算を行い、突入を最初からもう一度やり直すという戦法がとられ、訓練もそのように行われた。

しかし、作戦海域となる太平洋の環礁は水路が複雑であり、夜間において潜望鏡とジャイロスコープを用いての推測航法で目標に到達することは十分な訓練を経ても容易ではなかった。当時の搭乗員は「操縦するのには6本の手と6つの目がいる」と話していたという[13]
歴史
開発段階

小型特殊潜航艇甲標的の開発に成功した日本海軍は、太平洋戦争で実戦に投入した[14]真珠湾攻撃(1941年12月8日)、シドニー湾奇襲(1942年5月30日)、ディエゴ・スアレス泊地奇襲(1942年5月31日)における甲標的作戦[15]では事前に収容方法こそ検討されたものの、搭乗員達は片道攻撃であることを覚悟していた[14]。したがって、体当たり攻撃への気運は潜水艦関係者間に当初から潜在していた[14]

人間魚雷の構想は、ガダルカナル島攻防戦が終結に近づいた1943年(昭和18年)初頭に、現場の潜水艦関係者から浮上した[14]。潜水艦乗組員の竹間忠三大尉は「(戦勢の立て直しは)必中必殺の肉弾攻撃」として、人間魚雷の構想を軍令部潜水艦担当参謀の井浦祥二郎中佐に対して送付した[14]。井浦も人間魚雷の実現性を打診したが、艦政本部は消極的で軍令部首脳は認めなかった。 1943年(昭和18年)12月、入沢三輝大尉(当時、伊百六十五型潜水艦水雷長)と近江誠中尉(当時、同潜水艦航海長)は、戦局打開の手段としてまとめた「人間魚雷の独自研究の成果」を血書と共に連合艦隊司令部(当時の司令長官は古賀峯一大将)に直送した[14]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:110 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:FIRTREE