嘉吉の乱
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「嘉吉の変」はこの項目へ転送されています。後南朝勢力の後花園天皇内裏の襲撃事件については「禁闕の変」をご覧ください。

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嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代嘉吉元年(1441年)に播磨備前美作守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。主に嘉吉の変(かきつのへん)と呼ばれることが多い。


この事件については伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』に義教暗殺当日の事情が記されている。全一巻の『嘉吉記』には、嘉吉の乱から後の神器奪還までの赤松氏の事情が記されている。
目次

1 前史

1.1 赤松氏の隆盛

1.2 万人恐怖

1.3 満祐の隠居


2 乱の経過

2.1 将軍暗殺

2.2 暗殺後の対応

2.3 赤松氏討伐


3 戦後

3.1 守護大名の復権

3.2 赤松氏のその後


4 脚注

5 参考文献

6 関連項目

前史
赤松氏の隆盛

赤松氏は播磨の地頭であったが、鎌倉時代末期に赤松則村(円心)は後醍醐天皇の檄に応じて挙兵、鎌倉幕府打倒に大きく尽力し、その功績により守護に任じられた。しかし、恩賞への不満から南北朝時代の争乱では初代将軍足利尊氏に与して室町幕府創業の功臣となり、播磨の他に備前、美作を領し、幕府の四職の1つとなっていた家柄である。

応永34年(1427年)に満祐が家督を相続した時、元将軍足利義持は播磨を取り上げて寵臣である赤松持貞(満祐の又従兄弟でもあった)に与えようとし、満祐が京の屋敷を焼いて領国に引き上げる事件が起こった。義持は激怒して満祐を討とうとするが、幕府の重臣達はこれに反対した。そのうち、持貞は将軍側室との密通が露見したとして処刑されてしまい、満祐は赦免され3ヶ国の守護職を相続している。

義持の死後に弟の義教が6代将軍となると、満祐は侍所頭人に就任し、義教と満祐の関係は比較的良好であった。
万人恐怖 足利義教肖像

4代将軍義持は応永35年(1428年)に後継者を定めないまま死去した(嫡男の5代将軍義量は早世していた)。宿老による合議の結果、出家していた義持の4人の弟達の中から「籤引き」で後継者が選ばれることになった。籤引きの結果、天台座主の義円が還俗して義宣と称し(後に義教と改名)、6代将軍に就任した。この経緯から義教は世に「籤引き将軍」と呼ばれる。

当初は有力守護大名による衆議によって政治を行っていた義教だが、長老格の三宝院満済山名時熙の死後から次第に指導力を発揮するようになった。

義教は将軍の権力強化を狙って、斯波氏畠山氏山名氏京極氏富樫氏の家督相続に強引に介入し、意中の者を家督に据えさせた。永享11年(1439年)の永享の乱では、長年対立していた鎌倉公方足利持氏を滅ぼした。比叡山延暦寺とも対立し、最終的にこれを屈服させたものの、僧侶達が根本中堂を焼き払って自殺する騒ぎとなった。

足利将軍の中では父の3代将軍足利義満に比肩しうる権力を振るった義教だが、猜疑心にかられて過度に独裁的になり、粛清の刃は武家だけでなく公家にも容赦なく向けられた。当時の公家の日記には、些細なことで罰せられ所領を没収された多くの者達の名が書き連ねられている。中には遠島にされたり、殺された者もいた。伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』は義教の政治を「万人恐怖」と書き記している。
満祐の隠居

この頃、幕府の最長老格となっていた赤松満祐は義教に疎まれる様になっており、永享9年(1437年)には播磨、美作の所領を没収されるとの噂が流れている。義教は赤松氏の庶流の赤松貞村(持貞の甥)を寵愛し、永享12年(1440年)3月に摂津赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまった。

同年5月、大和出陣中の一色義貫土岐持頼が義教の命により誅殺された(大和永享の乱)。「次は義教と不仲の満祐が粛清される」との風説が流れはじめ、満祐は「狂乱」したと称して隠居した。

嘉吉元年(1441年)4月、持氏の遺児の春王丸安王丸を擁して関東で挙兵し、1年以上にわたって籠城していた結城氏朝結城城が陥落した(結城合戦)。捕えられた春王丸、安王丸兄弟は、護送途中の美濃垂井宿で斬首される。これより先の3月、出奔して大和で挙兵し、敗れて遠く日向へ逃れていた義教の弟の大覚寺義昭島津忠国に殺害されており、義教の当面の敵はみな消えたことになった。

6月18日、義教から家督介入の圧力を受けた富樫教家が逐電、弟の泰高が後を継いだ。23日には吉良持助が出奔している。
乱の経過
将軍暗殺

6月24日、満祐の子の教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ義教を招いた。『嘉吉記』などによると、「の子が沢山できたので、泳ぐさまを御覧下さい」[1]と招いたという。

この宴に相伴した大名は管領細川持之畠山持永山名持豊一色教親細川持常大内持世京極高数山名熙貴細川持春、赤松貞村で、義教の介入によって家督を相続した者たちであった。他に公家の正親町三条実雅正親町三条公治の父、義教の正室正親町三条尹子の兄)らも随行している。

一同が猿楽を観賞していた時、にわかにが放たれ、屋敷の門がいっせいに閉じられる大きな物音がたった。癇性な義教は「何事であるか」と叫ぶが、傍らに座していた正親町三条実雅は「雷鳴でありましょう」と呑気に答えた。その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の剛の者安積行秀が播磨国の千種鉄で鍛えた業物を抜くや義教の首をはねてしまった。

酒宴の席は血の海となり、居並ぶ守護大名達の多くは将軍の仇を討とうとするどころか、狼狽して逃げ惑った[2]。山名熙貴は抵抗するがその場で斬り殺された。細川持春は片腕を斬り落とされ、京極高数と大内持世も瀕死の重傷を負い、後日死去した。公家の正親町三条実雅は、果敢にも赤松氏から将軍に献上された金覆輪の太刀をつかみ刃向うが、切られて卒倒。庭先に控えていた将軍警護の走衆と赤松氏の武者とが斬り合いになり、塀によじ登って逃げようとする諸大名たちで屋敷は修羅場と化した。赤松氏の家臣が、将軍を討つことが本願であり、他の者に危害を加える意思はない旨を告げる事で騒ぎは収まり、負傷者を運び出し諸大名は退出した。

貞成親王の『看聞日記』は「赤松を討とうとして、露見して逆に討たれてしまったそうだ。自業自得である。このような将軍の犬死は、古来例を聞いたことがない」と書き残している。
暗殺後の対応

管領細川持之を始め諸大名達は、邸へ逃げ帰ると門を閉じて引きこもってしまった。彼らは赤松氏がこれほどの一大事を引き起こした以上は必ず同心する大名がいたに違いないと考え、形勢を見極めていた。


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