同盟90/緑の党
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ドイツ政党同盟90/緑の党
Bundnis 90/Die Grunen
党のロゴ
共同党首ジモーネ・ペーター
ジェム・オズデミル
成立年月日1979年
本部所在地ベルリン
ドイツ連邦議会議席数67 / 709   (9%)(2017年9月24日現在)
連邦参議院議席数未定 / 69(●年●月●日現在)
政治的思想・立場緑の政治
環境主義
進歩主義
中道左派
公式サイト ⇒Bundnis 90/Die Grunen
シンボル緑
国際組織グローバルグリーンズ
欧州緑の党
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同盟90/緑の党(どうめい90/みどりのとう、Bundnis 90/Die Grunen)は、ドイツ環境政党グローバルグリーンズ加盟。

現在、ドイツ連邦議会で63議席を持つ4番目に大きい政党であり、1980年代以降一定の勢力を持っている。1998年から2005年まではドイツ社会民主党連立政権を組み、脱原発風力発電の推進・二酸化炭素の削減など環境政策を進展させ、国民的人気の高いヨシュカ・フィッシャー外相などの閣僚を送り出した。この期間以外は常に野党である。

西ドイツの地方レベルで1970年代の終わりに、戦前から続く主に右翼的な環境保護運動が連合する形で「諸派・緑の党」 (Die Grunen) は設立された。しかし、そのままでは5%条項を突破できなかったため、のちに1960年代左翼的な学生運動世代を呼び込んで、連邦レベルの政党「緑の党」として1980年に再出発した。その後、右派グループは別の環境政党として脱退、以降は新左翼色の濃いエコロジー政党となっている。1983年に連邦議会で初めて議席を獲得。世界の多くの緑の党の中で最も古く、最も議会政治的に成功している。1989年1990年には、東ドイツ民主化に関わった市民グループが同盟90を結成、1993年に緑の党と統合した。


目次

1 歴史

1.1 設立

1.2 議会への進出

1.3 政権与党

1.4 下野、2009年選挙での躍進

1.5 「反原発」の姿勢による党勢拡大と党のその後


2 選挙における党勢推移

2.1 連邦議会選挙

2.2 欧州議会議員選挙


3 脚注

4 参考文献

5 関連項目

6 外部リンク


歴史
設立

ドイツにはナチス・ドイツ時代以前から続くエコロジーの伝統があり、シュヴァルツヴァルトの喪失などが話題となり環境意識の高まった1970年代の半ばから末期にかけて、主に右派や保守派の環境保護グループが中心となって、「Die Grunen」を組織した。当初はヘルベルト・グルール(ドイツキリスト教民主同盟 (CDU))を筆頭とする保守派・右派500人に対して中道左派ドイツ社会民主党 (SPD) 系)はわずか15人にすぎなかった。1979年の欧州議会選挙ではヘルベルト・グルールとペトラ・ケリーの2人を第一候補に置いて、有効投票数の3.2%を獲得した。また、ブレーメン市州選挙では 5.1% の高得票を叩き出す。さらに党員は一万人を突破した。これらの成功をみて、70年代をテロリズムにあけくれ衰退期にあった学生運動出身の左派グループが接近してくる。1979年11月4日にオッフェンバッハで行われた党大会では、右派グループは左翼過激派の参加を拒んで反対動議を提出するが、僅差で否決された。この採決によって緑の党の今日まで続く路線が決定されたと言える。1980年1月13日のカールスルーエでの党大会で新たに連邦議会政党として出発することになった際の結党メンバーにはドイツ全学連の元議長ルディ・ドゥチュケも名を連ねた。しかし、結果的に主導権を握ったのは、ケリーらの中道左派であった。彼女は右派と左派を巧みに仲介する役割を果たしていく。反原発と自然エネルギーの推進、反核兵器・反軍国主義・反 NATO平和主義、反消費社会循環型社会が当時の主な主張であった。

いったん加入が認められた左派グループはどんどんと党員を送り込み、党内は次第に左寄りに加速していく。このことに不満をもったグルールの右派グループは、「毛沢東主義者に党が乗っ取られている」として1982年に脱退を表明し、新たに保守系の環境党(エコロジー民主党、Okologisch-Demokratische Partei, ODP)を創設する(グルール自身は、1990年にさらに右寄りのドイツ独立環境党 Unabhangige Okologen Deutschlands, UODを成立させた)。この分裂によって緑の党は党員の3分の1を失う。緑の党に残った人々は、軍事主義や移民規制と反中絶に対してより強く反対した。またこの間、マリファナ使用の自由化、ゲイレズビアンの権利の向上、自由主義教育や育児を主張した。さらに、核兵器保有案やフランクフルト空港の新しい滑走路の構築に対して、デモ警察と頻繁に衝突し抗議を行った。
議会への進出

州レベルや欧州議会の選挙でのいくつかの成功の後に、1983年連邦議会選挙で初めて議席を勝ち取った。その時の重要な争点の中で、アメリカ合衆国およびNATOによる、パーシング II (IRBM) および核巡航ミサイル西ドイツへの配備が、一般住民の強い反対を生みだしていた。新しく形成された党は、人々の運動への支援を補充することができた。部分的に、1986年チェルノブイリ原子力発電所事故のインパクトとドイツの大気汚染と森林への酸性雨の脅威に対する意識を育てることで、1987年1月に行なわれた連邦議会選挙で得票率を8.3%に増加させた。

ドイツが再統一されて初めて行なわれた1990年12月の連邦議会選挙は旧東ドイツと旧西ドイツで5%のハードルを別々に適用して行われたが、旧西ドイツの緑の党は、連邦議会の中で議席を得るのに必要な5%の得票率を越えることができなかった(旧東ドイツでは、同盟90東ドイツ緑の党政党連合が投票の5%以上を獲得することができた)。敗因はナショナリズム愛国心の高まっているムードに反対するキャンペーンを行ったことが原因だと考えられた。1994年連邦議会選挙では、連邦議会で7.3%を得票し、49議席を獲得した。
政権与党

1998年連邦議会選挙では、得票率が6.7%に落ちたにもかかわらず、47議席を保持し、ドイツ社会民主党(SPD)との連立政権赤緑連合)を組むことで初めて政権与党となった。


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