十字軍
[Wikipedia|▼Menu]

この記事には複数の問題があります。改善ノートページでの議論にご協力ください。

出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2015年4月)


出典脚注などを用いて記述と関連付けてください。(2013年1月)


独自研究が含まれているおそれがあります。(2013年1月)


第1回十字軍によるアンティオキア攻囲戦

十字軍(じゅうじぐん、ラテン語: cruciata、英語: crusade)とは、中世西ヨーロッパキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。

一般には、上記のキリスト教による対イスラーム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)などにも十字軍の名称は使われている。

実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、中東に既にあった諸教会(正教会東方諸教会)の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、第4回十字軍北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある第8回の十字軍は北アフリカのチュニスを目的としている。
目次

1 概略

1.1 十字軍遠征までの経緯

1.2 民衆十字軍

1.3 第1回十字軍

1.3.1 1101年の十字軍

1.3.2 ノルウェー十字軍


1.4 第2回十字軍

1.5 第3回十字軍

1.6 第4回十字軍

1.7 第5回十字軍

1.8 第6回十字軍

1.9 第7回十字軍

1.10 第8回十字軍

1.11 第9回十字軍


2 その他の十字軍

2.1 レコンキスタ

2.2 北方十字軍

2.3 アルビジョア十字軍

2.4 羊飼い十字軍


3 十字軍の影響

4 十字軍の実態

5 軍制と文化

6 イスラム側の認識

7 その後

8 脚注

9 参考文献

9.1 関連書籍


10 関連項目

概略
十字軍遠征までの経緯 十字軍の遠征路 8回のうち、第3回、第4回、第7回、第8回は主な遠征路が海路となっている。なお、第5回と第6回は図上に示されていない。

トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝アナトリア半島を占領された東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位1081年-1118年)が、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことが発端(1095年)。このとき、大義名分として異教徒イスラム教国からの聖地エルサレムの奪還を訴えた。皇帝アレクシオスが要請したのは東ローマ帝国への傭兵の提供であり、十字軍のような独自の軍団ではなかった。

ウルバヌス2世は1095年11月にクレルモンで行われた教会会議(クレルモン公会議とも)の終わりに、集まったフランスの騎士たちに向かってエルサレム奪回活動に参加するよう呼びかけた。彼はフランス人たちに対して聖地をイスラム教徒の手から奪回しようと呼びかけ、「乳と蜜の流れる土地カナン」という聖書由来の表現をひいて軍隊の派遣を訴えた[1]

なお、本稿では十字軍の回数を8回とする。解釈によってその回数には差異がある。第1回から第4回までは多くの歴史記述で共通であるが、たとえば第5回(1218年-)を数えない説があったり、第6回(1228年-)は破門皇帝による私的な十字軍(フリードリヒ十字軍)として数えない例もあった。1270年の聖王ルイの出征まで8回(または7回)とすることが多いが、異論もある。

なお、回数で名付けられている主要な十字軍の他、個々の諸侯が手勢を引き連れて聖地に遠征する小規模な十字軍も多く存在した。また、巡礼で聖地に到着した騎士や兵士が現地でイスラム勢力との戦闘に参加するのも、聖地にそのまま住みついた騎士らや聖地で生まれ育った遠征軍の末裔らが作る十字軍国家が継続的にイスラム諸国と戦うのも、十字軍である。その他、第1回十字軍時の庶民十字軍少年十字軍、羊飼い十字軍などの大小の民衆十字軍が起こっている(大部分は聖地にたどり着けていない)。
民衆十字軍詳細は「民衆十字軍」を参照

1096年
隠者ピエールに率いられた民衆十字軍

クレルモン公会議の決定を受けてヨーロッパ各地の諸侯や騎士は遠征の準備を始めたが、十字軍の熱狂は民衆にも伝染し、1096年、彼らの出発する数ヶ月前に、フランスで説教師のアミアンの隠者ピエールに率いられた民衆や下級騎士の軍勢4万人がエルサレムを目指して出発した。これが民衆十字軍と呼ばれるものである。民衆十字軍は東上の途中でユダヤ人を各地で虐殺し、ハンガリー王国ビザンツ帝国内で衝突を繰り返しながら小アジアに上陸したものの、統制の取れていない上に軍事力も弱い民衆十字軍はルーム・セルジューク朝クルチ・アルスラーン1世によって蹴散らされ、多くのものは殺されるか奴隷となり、なんら軍事的成果を上げることもなく崩壊した。しかしピエールらごく一部は生き延び、第1回十字軍へと再び参加した。
第1回十字軍 エルサレム攻囲戦詳細は「第1回十字軍」を参照

1096年 - 1099年

セルジューク朝の圧迫に苦しんだ東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスの依頼により、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言した。この呼びかけにこたえた騎士たちは1096年にエルサレム遠征の軍を起こした。同年12月には各地から出発した諸侯はコンスタンティノープルに集結したものの、民衆十字軍の醜態を見ていた東ローマ皇帝は彼らに信をおかず、十字軍に臣下の誓いと旧帝国領の返還、聖地周辺の征服時には新国家を東ローマの宗主権下に置くことを求めた。これを飲んだ十字軍はニカイア攻囲戦ドリュラエウムの戦いなどでイスラム軍を撃破し、アナトリアからシリアへと進軍していった。

途上、イスラム教徒支配下の都市を攻略しつつエルサレムを目指した。この過程で十字軍による掠奪、虐殺、強姦があったとされる。イスラム教徒の諸領主は十字軍に対し無為無策であり、連合して応戦することもできず潰滅した。一方、十字軍側も分派や内部対立が目立ち始めた。

1098年にはブルゴーニュ伯ボードゥアンが東方のユーフラテス川上流部のエデッサに分派して進軍し、エデッサ伯国を立てた。本隊は1097年から1098年にかけてシリア北部の大都市アンティオキアでアンティオキア攻囲戦を戦い勝利したが、主要な将軍の一人であるボエモンがここにとどまって領主となる姿勢を見せ、ボエモン1世 (アンティオキア公)となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:84 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:FIRTREE