利根川
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これは現在東北新幹線利根川橋梁が渡河する付近の茨城県古河市・五霞町間を開削し、1621年に伊奈忠治によって行われた利根川と渡良瀬川の連結事業である新川通開削[注 10]と連携して利根川の河水を東へ付け替える事業である[79]。続いて1629年寛永6年)からはそれまで利根川の支流であった荒川がそれまでの入間川水系に付け替えられ(支川であった和田吉野川へ接続され)独立した荒川水系となり、これを「荒川の西遷」と呼ぶ。切り離された旧下流路は元荒川となって現在に至る[80]1635年(寛永12年)から1644年(寛永21年/正保元年)に掛けては江戸川の開削が実施され、これにより関宿から分流する現在の江戸川の姿が形成された[81]。さらに関宿より下流の鬼怒川・小貝川などの改修も行われ、1629年にそれまで鬼怒川に合流していた小貝川を独立した河川として分離。翌1630年(寛永7年)には小貝川下流を付け替えている。そして1662年寛文2年)から1666年(寛文6年)に掛けて利根川と霞ヶ浦を連結する新利根川が開削され江戸時代前半期における治水事業は一応の区切りが付いた[82]

江戸幕府における利根川を主に置いた河川行政は当初は伊奈氏が中心的役割を果たしている。東遷事業が最盛期を迎えていた1642年(寛永19年)3代将軍・徳川家光は伊奈忠治に対し堤防修築の総指揮を命じ、伊奈氏の河川行政に対する権限が強化された。しかし5代将軍・徳川綱吉の治世では伊奈氏は関東郡代に任じられたものの勘定奉行の管轄下に置かれ、相対的に権限は低下した。それでも伊奈氏の河川事業への関わりは強く、4代・伊奈忠克葛西用水路1660年万治3年)に開削している。また小貝川流域においては伊奈忠治により1630年(寛永7年)に岡堰、5代・伊奈忠常によって1667年(寛文7年)豊田堰の原型となる堰[注 11]が建設され、1722年享保7年)完成の福岡堰と共に「関東三大堰」と総称されている[83]。伊奈氏による河川工法は「伊奈流(関東流)」と呼ばれた。
江戸後期の河川事業見沼代用水の項目も参照。さいたま市内を流れる見沼代用水東縁)。見沼通船堀東縁一の関(閘門)。パナマ運河と同じ方式で舟を通行させる日本最古の閘門。浅間山空撮。1783年天明3年)の大噴火は利根川の治水に重大な影響を及ぼした。

1716年正徳6年/享保元年)紀伊藩主であった徳川吉宗が8代将軍となった。吉宗は享保の改革を推進するがその中で質素倹約と共に新田開発による年貢増徴により、厳しい幕府の財政建て直しを志向する。利根川の河川開発においては勘定吟味役として紀伊藩士であった井沢為永(弥惣兵衛)が60歳という高齢でありながら登用された。為永が実施した利根川水系の河川開発として著名なのが見沼代用水の開削である。

利根川中流の武蔵国北部・中部における農業用水の水源としては1604年開削の備前渠用水があるが、それ以前より見沼という沼を灌漑用水源として利用していた。見沼は伊奈忠治により寛永年間に現在のさいたま市緑区に八丁堤という締切堤が建設されてダム化し、「見沼溜井」として1660年開削の葛西用水路と共に重要な水源となっていた。しかし新田開発が進むに連れ灌漑用水の需要増により見沼溜井の供給量とのバランスが崩壊し、享保年間には用水不足が深刻化していた[84]。このため吉宗は為永に対し1725年(享保10年)9月、「見沼に代わる用水路」すなわち見沼代用水の開削と見沼の干拓を指示。現在の行田市に取水口を設け2万9500間の用水を開削、星川を経由しさらに用水は東縁西縁に分かれ旧見沼溜井の両縁に沿って南下する[85]1728年(享保13年)に用水は完成し303村の田畑1万2571町、石高換算で約14万9136石の農地が灌漑の恩恵を受けることとなった。また見沼代用水を利用して1731年(享保16年)見沼通船堀が開削され、用水は水運にも利用される多目的用水路へと変化した。なお通船堀に設けられた閘門はパナマ運河と同じ方式で舟を運行させるが、同形式としては日本最古の閘門である[86]

また上野国内では現在の邑楽郡千代田町と明和町にまたがる利根加用水が建設された。1839年天保10年)同地31村の名主が連名で利根川からの取水による用水開削を幕府に嘆願したのが始まりで、用水不足に悩む同地に対し利根川から谷田川に至る長さ700間の用水路が整備された。ところが落差不足で十分に通水できず、1846年弘化3年)と1855年安政2年)の二度にわたり用水路の改築が実施された[87]

幕府による新田開発は次第に利根川下流域にも拡大するが、湖沼の干拓による新田開発も企図された。主なものとして手賀沼干拓と印旛沼干拓がある。手賀沼の場合は1636年(寛永13年)に干拓用排水路である弁天堀が開削され、1661年万治4年/寛文元年)に本格的な干拓計画が着手されたが挫折。1671年(寛文11年)に海野屋作兵衛の手により最初の干拓が成功し新田234町歩が開発された。しかし1676年延宝4年)以降1729年(享保14年)、1739年元文4年)の干拓計画は何れも洪水により挫折。


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