利根川
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記録に残る最も古い洪水の記録は、奈良時代758年天平宝字2年)における鬼怒川の洪水で、「毛野(鬼怒)川氾濫して二千余頃[注 7]の良田を荒廃に帰せしめ・・・」と被害が記されている[71]

利根川流域において初めて治水事業が実施されたのは768年神護景雲2年)、鬼怒川筋での流路付け替えである[72]。一方利水については645年大化の改新後施行された班田収授法条里制が利根川流域にも実施されたのが初見であり、群馬県高崎市や太田市、茨城県南部、埼玉県北部にその遺構が確認されている[73]。中世利根川流域の河川開発に積極的だったのは鎌倉幕府で、将軍だった源頼朝1194年建久5年)には利根川では初となる堤防の建設を武蔵国で施工した。続いて1199年建久10年/正治元年)4月、頼朝は東国の地頭に対して農業用水を開発して開墾を行う命令を下した[74]。その後も幕府による利根川の開発は続けられ、1207年建永2年)3月幕府は北条時房に武蔵国の開発を命じている[74]。治水事業についても1232年寛喜4年/貞永元年)には執権北条泰時の命により現在の埼玉県熊谷市に柿沼堤が、1253年建長5年)には執権北条時頼の命により現在の茨城県猿島郡五霞町付近、下総国下河辺に堤防が築かれている[75]。これにより鎌倉時代の田地は平安時代に比べ約1万6000町歩も多い6万6710町歩となったことが『拾芥抄』に記されており、流域の農地開発は大いに進展した[74]

室町時代の利根川流域は鎌倉公方の支配下にあったが政情は不安定で度々戦乱が勃発。治水・利水事業では見るべきものがなかった。戦国時代に入り利根川流域は伊豆国より勢力を伸ばした後北条氏により支配されたが、4代目当主北条氏政の代である1576年天正4年)に長さ900mの権現堂堤権現堂川に建設されている[75]安土桃山時代に移り天下統一に向けて活発な軍事行動を繰り広げていた豊臣秀吉は、臣従の姿勢を見せない後北条氏に対し1590年(天正18年)小田原征伐を起こすが、この際石田三成らに対して武蔵国忍城水攻めにするよう命令した。6月三成は雨季で増水している利根川・荒川の河水を堤防で堰き止め、忍城を水没させて降伏・開城させる方針を採った。しかし地形上の影響で城内を浸水させることはできず、却って堤防が決壊し豊臣軍に大勢の犠牲者を出した。結局忍城は7月16日、後北条氏の本拠である小田原城開城後に降伏することになる。この時三成によって築造された堤防を石田堤と呼び、自然堤防などを利用した全長28kmの堤防を一週間で築き上げている[76]。ただしこの堤防は軍事的側面で建設されたもので、利根川の治水には何ら関係がない。
江戸前期の河川事業詳細は「利根川東遷事業」を参照 伊奈忠次銅像(茨城県水戸市)。利根川河川事業の基礎を築いた。 名所江戸百景』に描かれた葛西用水路。江戸では曳舟川とも呼ばれていた。

後北条氏の滅亡後、その旧領[注 8]徳川家康に与えられ家康は江戸に本拠を定めた。家康は領国経営を直ちに開始するが利根川水系の河川改修も積極的に取り組んだ。最初に行われた事業は1594年文禄3年)、忍城主であった家康の四男松平忠吉が行った会の川締切である。これは現在の羽生市付近で二股に分流していた利根川のうち南流する会の川を締切り、東方向に流路を一本化して渡良瀬川(太日川)に連結するものである。翌1595年(文禄4年)には徳川四天王の一人で上野館林城主であった榊原康政が、利根川左岸に総延長33km、高さ4.5 - 6m、天端(てんば)幅5.5 - 9.1mという堤防を建設した。これを文禄堤と呼び利根川における最初の本格的な大規模堤防である[77]。このほか同時期には中条堤も築かれている。これら利根川水系における河川事業は関ヶ原の戦いで家康が覇権を握り、1603年慶長8年)家康が将軍となり江戸幕府を開いた後は三河譜代である家臣・伊奈忠次を祖とする伊奈氏が中心的役割を果たしていく。忠次が手掛けた事業としては1604年(慶長9年)烏川を取水元とし利根川沿いに開削した総延長20kmに及ぶ備前渠用水[注 9]や上野総社藩主・秋元長朝が開発した天狗岩用水下流に開削した代官堀などがある。忠次の系統は代官頭、後に関東郡代として12代伊奈忠尊までの間利根川水系の河川開発に携わるが、最大の事業として知られるのが利根川東遷事業である。

利根川東遷事業は江戸湾を河口としていた利根川を東へ付け替え、現在の銚子市を新たな河口とする江戸時代最大級の治水事業であり、現在の利根川水系の基礎となった。事業の範囲または目的については東遷事業に関する明確な史料が存在せず、後世の研究者が様々な説や見解を挙げている。開始時期については1594年の会の川締切を挙げるものが多く栗原良輔、佐藤俊郎、本間清利が支持している。終了時期については本間の1698年元禄11年)完了説が最も早く、根岸門蔵は1871年(明治4年)、河田羆は1890年(明治23年)の利根運河開通を以って完了としている。従って利根川東遷事業の明確な事業年数については不詳である。しかし目的についてはおおむね以下の見解でコンセンサスが得られている[78]
幕府本拠である江戸、および利根川流域の水害対策としての治水目的

利根川流域の新田開発促進

街道や水運整備による流通路確保(後述)

仙台藩伊達氏仮想敵国として江戸城防衛のため大外堀に利根川を利用する軍事目的

利根川東遷事業の主要な事業としてはまず1621年元和7年)から1654年承応3年)まで3回にわたる赤堀川開削がある。これは現在東北新幹線利根川橋梁が渡河する付近の茨城県古河市・五霞町間を開削し、1621年に伊奈忠治によって行われた利根川と渡良瀬川の連結事業である新川通開削[注 10]と連携して利根川の河水を東へ付け替える事業である[79]。続いて1629年寛永6年)からはそれまで利根川の支流であった荒川がそれまでの入間川水系に付け替えられ(支川であった和田吉野川へ接続され)独立した荒川水系となり、これを「荒川の西遷」と呼ぶ。切り離された旧下流路は元荒川となって現在に至る[80]1635年(寛永12年)から1644年(寛永21年/正保元年)に掛けては江戸川の開削が実施され、これにより関宿から分流する現在の江戸川の姿が形成された[81]。さらに関宿より下流の鬼怒川・小貝川などの改修も行われ、1629年にそれまで鬼怒川に合流していた小貝川を独立した河川として分離。翌1630年(寛永7年)には小貝川下流を付け替えている。そして1662年寛文2年)から1666年(寛文6年)に掛けて利根川と霞ヶ浦を連結する新利根川が開削され江戸時代前半期における治水事業は一応の区切りが付いた[82]

江戸幕府における利根川を主に置いた河川行政は当初は伊奈氏が中心的役割を果たしている。東遷事業が最盛期を迎えていた1642年(寛永19年)3代将軍・徳川家光は伊奈忠治に対し堤防修築の総指揮を命じ、伊奈氏の河川行政に対する権限が強化された。しかし5代将軍・徳川綱吉の治世では伊奈氏は関東郡代に任じられたものの勘定奉行の管轄下に置かれ、相対的に権限は低下した。それでも伊奈氏の河川事業への関わりは強く、4代・伊奈忠克葛西用水路1660年万治3年)に開削している。


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