利根川
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この対策として堤防修築や川底の掘削、さらに1654年以来となる赤堀川の再掘削が1843年(天保14年)頃に実施され、江戸川の河水流入を制限するために「棒出し」と呼ばれる水制が同じく天保年間に建設されている[92][注 12]。なお、享保以降の幕府内における河川行政は勘定吟味役に井沢為永が重用されたほか、「普請役」や「四川奉行」[注 13]の改廃を経て河川行政は勘定奉行5名による分担任務となった。とはいえ普請を行うには関東郡代伊奈氏の決裁が必要とされ、伊奈氏の影響力はまだ高かった。しかし12代伊奈忠尊の時1792年(寛保4年)不行跡を理由に改易され、家康以来河川事業に深く関わった伊奈氏はその表舞台から消え以後幕末に至るまで勘定奉行支配下の「四川用水方普請役」が差配していく[93]

江戸時代を通じ利根川東遷事業や浅間山噴火対策など幕府の治水事業により利根川の膨大な河水は渡良瀬川などと共にかつての香取海方面へと流下することとなった。これにより江戸を含めた武蔵国方面では水害の危険性が減少し、新田開発による石高の増加が著しくなった。さらに舟運・海運航路が整備され経済の大動脈として利根川が活用されるなどの効果をもたらした。反面利根川の水面よりも標高が低い霞ヶ浦など下流低地において逆に水害の危険を増幅させ、明治以降の利根川治水事業を困難にしたという副作用が生じている[94]
利根川改修計画と増補計画渡良瀬遊水地空撮。渡良瀬遊水地概要図。江戸川水閘門(1)と行徳可動堰(2)空撮写真[95]

1868年(明治元年)に明治政府が誕生し、行政機構は大きな変化を遂げた。河川行政については数多の変遷を経て1874年(明治7年)に内務省が終戦後まで管掌することになり、利根川には1875年(明治8年)6月16日内務省土木寮利根川出張所が設置された。この出張所が現在の国土交通省関東地方整備局の発祥となる[96]。また1896年には旧河川法が公布され、利根川は同法の適用を受ける河川に指定された。以後、内務省主導による利根川の治水事業が進められていく。

政府はオランダ式治水工法を日本各地の河川に導入するためファン・ドールンを招き1872年(明治5年)に利根川の測量調査などを進めたが[97]、具体化されたのは1886年(明治19年)にローウェンホルスト・ムルデルによって立案された利根川改修計画である[98]。これは現在の群馬県佐波郡玉村町から利根川河口までを対象に治水上の要所に堤防を築いて水害に対処するほか、利根運河を開削して水運の便を改良することが骨子であった。この時初めて利根川の計画高水流量が算出され、毎秒3,750m3に定められた[99]。計画は第1期から第3期まで3分割で進められ、この間1890年(明治23年)には利根運河が完成した。

しかし1910年(明治43年)8月、関東地方を二つの台風が連続して襲来しそれに伴う前線の活発化によって利根川は当時最悪の洪水をもたらした。この「明治43年8月洪水」は死者769名を出す大災害となり、利根川は中流部において北は現在の前橋市・みどり市、西は富岡市から東は野田市、南は川越市に至る広範囲が浸水し関東平野中央部が一つの巨大な湖になった[100]。この水害を機に先の利根川改修計画は同年改訂され計画高水流量は毎秒5,570m3に上方修正された。この時事業計画に上ったのが渡良瀬遊水地であり、当時深刻化していた足尾鉱毒事件鉱毒問題解決に治水目的を付加させるとして正式な事業となった[101]。このほか堤防や護岸建設、横利根閘門1921年)・印旛水門1922年)・小野川水門(1923年)の新設、利根川下流の新河道開削(1889年 - 1922年)、権現堂川の利根川との締切(1926年)が本流域で施工され[102]、江戸川では分流部に関宿水門と関宿高水路(1927年)を建設して利根川からの分流量を調節するほか、下流部では江戸川放水路を開削(1920年)し流下能力を増強させた。これら一連の利根川改修計画は江戸川放水路の補修が完了した1930年(昭和5年)に一応の完成を見た[103]。この間1923年(大正12年)の関東大震災により利根川中流部で堤防の損壊が116箇所発生し、その復旧も行われている[104]

利根川改修計画が完成した後も利根川の洪水は度々発生し1935年(昭和10年)9月1938年(昭和13年)6月 - 7月1941年(昭和16年)7月には改修計画で定めた計画高水流量をはるかに上回る洪水が記録された。特に1938年の洪水は利根川下流部で浸水被害が深刻となり、往時の香取海が再現されたかの浸水範囲となった[105]。事態を重視した内務省は改修計画に替わる新しい利根川の治水計画策定を検討、荒川放水路建設の総指揮を執った内務省内務技監青山士(あきら)を委員長とする「利根川治水専門委員会」を設立。計画高水流量を一挙に毎秒1万m3に改める利根川改修増補計画が1938年に第73回帝国議会で承認され、翌1939年(昭和14年)より着手された[106]。この計画における主要事業は渡良瀬遊水地の洪水調節池化と、利根川放水路の建設にある。それまでの渡良瀬遊水地は洪水時に自然に貯留する性格のものであったが、遊水地周囲を堤防で囲み洪水時にはより多くの河水を貯水する調整池に改良する計画とした。


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