利根川
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開発と地域摩擦足尾鉱毒事件沼田ダム計画八ッ場ダム中止したダム事業の項目も参照。 田中正造足尾鉱毒事件の解決に生涯を費やし、渡良瀬遊水地建設にも反対した。 2006年時点における八ッ場ダムサイト予定地(吾妻川)。1952年の計画発表以来未だ完成していない。 鳩山由紀夫内閣国土交通大臣であった前原誠司

利根川の河川開発により、流域住民は恩恵を受けた一方で開発に伴う様々な犠牲や、流域住民間さらには自治体間の対立など問題が生じた。

現在の埼玉県熊谷市付近に1592年(天正20年)建設が開始された中条堤は、従来からあった自然堤防を増築するなどして形成された堤防である。この堤防はいくつかの堤防と連携し洪水の際は堤防上流部に貯水を行い、その後水位が低下するとともに自然に利根川へと流出する遊水池の役割も果たす機能を有する。その洪水調節量は毎秒4,000m3と現在の利根川上流ダム群に匹敵する処理能力を持ち、容量を超えた分は越流堤を介して忍方面へ流す。このため堤防を境として上流部の上郷地区、下流の下郷地区では堤防の運用について利害が相反し常に対立していた。すなわち上郷地区では中条堤の高さをできるだけ低くして洪水の被害を避けたいとする一方、下郷地区では逆に高くして洪水被害を避けようと考えたため、堤防決壊後の修復では激しく対立した。江戸時代には幕府の絶対的統制下で両地区合同の中条堤組合が作られ、対立は最小限に食い止められたが明治に入り中央の統制力が弱まると、中条堤に替わる新堤防建設を求める上郷と堤の維持・強化を求める下郷が激しく対立。遂には警官隊と住民の衝突や埼玉県知事の不信任決議が埼玉県議会で採択されるなどの事態に発展した。最終的に内務省が利根川改修計画の一環として今日見られる連続堤防方式での治水計画による改修を行ったことにより事態は収拾されたが、高度な治水機能を有していた中条堤の機能はこれにより損なわれた[127]。また利根川改修増補計画以降挙げられていた小貝川付替計画は、新河道のルートとなる北相馬郡布川町(現在の利根町)を中心に猛烈な反対が起こり、1953年(昭和28年)11月には取材に来ていた朝日新聞読売新聞毎日新聞などの記者団が大勢の地元住民によって暴行監禁される事件も発生。最終的に1980年(昭和55年)の治水計画改訂時に付替計画は廃止され、堤防補強を行うことになった[128]

一方ダムや遊水池建設に伴う住民移転などの犠牲も河川事業の拡大に伴い増加した。渡良瀬遊水地は当初治水に加え足尾鉱毒事件の鉱毒対策として計画されたが、建設予定地に擬された栃木県下都賀郡谷中村(現在の栃木市)の約300世帯を移転させる事態となり、田中正造らの反対運動も起こったが結局土地収用法による強制執行などの手段も駆使した結果村民は各所へ散り、谷中村は廃村となった[129]。また戦後の利根川改定改修計画で計画された藤原ダムでは建設省が地元住民の了解を得ずに工事を開始したことに水没住民が態度を硬化、群馬県の仲裁や新しく赴任したダム工事事務所長の誠意ある態度により軟化するまで激しい反対闘争をひき起こした[130]。片品川の薗原ダムでも老神温泉が一部水没するなどしたため反対運動が激化、当時蜂の巣城紛争として日本全国に知れ渡った松原(筑後川)・下筌ダム(津江川)反対闘争と並び「東の薗原、西の松原・下筌」と表現された[131]。さらに吾妻川の八ッ場ダムでは川原湯温泉水没に地元が猛反発し1952年(昭和27年)の計画発表から現在に至るまで約60年経っても完成できない状況となっている。そして利根川上流ダム群の中核に模されていた沼田ダム計画は、水没世帯数2,200世帯という類例のない規模となることから水没予定地の沼田市のみならず群馬県も反対。1972年(昭和47年)第1次田中角栄内閣により計画は断念された[132]。こうした水没地域への生活保護対策として1973年(昭和48年)水源地域対策特別措置法が施行され、川治ダムなど[注 17]が指定対象となり補償金かさ上げや地域開発などが行われたほか下流受益地の都県からの拠出金により財団法人利根川・荒川水源地域対策基金が1976年に設立され、水没地域に対する助成が行われている[133]

他方で広域河川開発に伴う受益地同士による利害対立も顕在化した。利根川改修増補計画で登場した利根川放水路計画はカスリーン台風の被害が深刻だった東京都と埼玉県が強く推進したのに対し、手賀沼や印旛沼などの開発に支障を来たすことを懸念した千葉県との間で意見の相違があり、用地買収や莫大な事業費捻出問題もあり事業は進展しなかった。そのうち放水路建設予定地は宅地化や農地化が高度になされて放水路の建設は極めて困難となり、現在まで未着工となっている[134]。また尾瀬原ダムより利根川水系へ分水する尾瀬分水計画はダム計画自体の環境破壊に対する厚生省(現在の厚生労働省)、文部省(現在の文部科学省)、日本自然保護協会の反対に加えて只見川および合流先である阿賀野川の慣行水利権を持つ福島県新潟県が分水に反発。分水を求める東京都など一都五県と激しく対立し福島・新潟県側には他の東北五県が加担して尾瀬分水は関東地方対東北地方の政治問題に発展した。この問題は1996年(平成8年)に事業者である東京電力尾瀬の水利権を放棄したことで終息する[135][136]

1990年代以降は環境保護や公共事業に対する厳しい日本国民の視線もあり、ダム事業を始めとする河川開発も批判の対象となった。こうした中で第2次橋本内閣による大規模公共事業縮小[注 18]第1次小泉内閣の「骨太の方針」により利根川水系でも戸倉ダム計画(片品川)など多くのダム事業が中止された。そして2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙で大勝した民主党マニフェストに「八ッ場ダム中止」を盛り込み、発足した鳩山由紀夫内閣国土交通大臣前原誠司は八ッ場ダム中止だけでなく計画・建設中の国土交通省直轄ダム事業の凍結を発表した[137]。しかしこの方針に下流受益地である東京都など一都五県の知事のみならずダム建設予定地である吾妻郡長野原町や川原湯温泉組合が猛反発し、民主党政権と対立する状況になっている。また高規格堤防(スーパー堤防)について2010年(平成22年)の事業仕分けで廃止が決定されたが、これに石原慎太郎東京都知事が「必要」と異論を唱えている[138]

2008年(平成20年)に内閣府中央防災会議が発表した資料によれば、カスリーン台風と同じ洪水被害が発生した場合最悪で死者は最大3,800人、罹災者数は160万人に上ると推測している[139]。このため河川工学の専門家からは「八ッ場ダムなどの治水公共事業は必要」とする意見も多い[140]。他方で市民団体が八ッ場ダムなどの事業負担金差し止め訴訟を起こし、係争している[141]。河川事業に対する多様な意見や政府の方針転換などもあり、日本最大級の河川における治水・利水事業は岐路を迎えている。
河川施設

利根川および利根川水系では奈良時代より治水事業が開始され、江戸時代より本格的な利水事業が始まっているが水害は繰り返し流域を襲い、その被害額も次第に顕著なものとなっていた。東京が首都に定められて以降治水安全度の向上や人口増加、工業地帯拡張による水道需要・電力需要の増大、および新田開発や干拓による農地拡大を背景に利根川水系全体を見通した河川開発が求められるようになった。カスリーン台風以後利根川水系は多目的ダムを中心とした河川総合開発事業が展開され、現在利根川水系は日本の国民生活・経済活動上において重要な役割を担っている。本項目では利根川および利根川水系におけるダム遊水池、水路(放水路用水路、導水路)、水力発電事業および砂防事業について記述する。
ダム・堰 利根川水系ではダムの高さが最も高い奈良俣ダム(楢俣川)。日本でも第4位の高さである。


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