利根川
ご協力下さい!!
◇暇つぶし何某◇

[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

水運利根運河の項目も参照利根運河流路図。1915年頃の利根運河。汽船も運航し往来は盛況だった。利根川に残る数少ない渡船の一つ、赤岩渡船江戸川を渡る矢切の渡し

利根川における水運の歴史は835年承和2年)6月29日の太政官符において、利根川旧河道である現在の隅田川に常設の渡船が存在し物流を行っていたことが確認されるほか、『万葉集』巻十四・三三八四番の和歌にも帆掛舟による水運が行われていたことを示唆する文言が記されている[207]。鎌倉時代から室町時代に掛けて関東地方に貨幣経済が浸透すると市場が発展、関東各地の特産品が水運を利用して京都方面へ流通しており、『旧大禰宜家文書』・『香取文書』により1372年応安5年)から1419年応永26年)に掛けて8箇所の水路関所が設置され[注 34]、商船から津料を徴収していた[207]。戦国時代に入ると後北条氏が関東に勢力を伸ばすが、当時軍事・水運の要衝であった関宿城を巡る攻防が繰り広げられる。関宿城は3代当主・北条氏康が『喜連川文書』において「一国を獲るに等しい」と評価した要衝であり、城主の簗田晴助持助父子と争った末1572年(天正2年)氏康の跡を継いだ北条氏政が落城させ、付近一帯を直接の支配下に置いた[208]。以後利根川水系の水運は後北条氏の支配下となり、氏政の弟である北条氏照による判物で航路の拡大が見て取れる[209]

江戸時代に入ると、幕府は後北条氏の整備した水運航路を整備・拡大する一方で江戸防衛の観点から利根川への架橋を禁止し、代わりに渡船の設置を行った。しかしこの渡船についても1616年元和2年)8月の御触書で幕府指定の「定船場」と呼ばれる渡船場以外での渡船を厳禁とした。この時定められた定船場は上野国白井渡から下総国神崎までの15箇所である[210]。一方で利根川を物流の大動脈として利用するための整備が利根川東遷事業と連携して幕府によって実施され、1671年(寛文11年)河村瑞賢による東廻り航路整備を機に利根川は江戸への廻米には欠かせない航路となり、東遷事業以降東北・北関東諸藩の廻米が本格化した[211]水戸藩では3代藩主・徳川綱條1706年宝永3年)松波勘十郎良利を登用、松波は涸沼と北浦を連結して那珂湊から直接利根川への水運を図る勘十郎堀を着工したが、激しい農民一揆が起こり勘十郎堀は未完に終わっている[212]。また見沼代用水を利用した見沼通船堀が1731年開削され、利根川中流の物流が強化された。

この廻米を輸送・備蓄するための拠点として河岸の整備も同時に行われた。1599年(慶長4年)に伊奈忠次が権現堂河岸を設けたのを皮切りに、水運遡行の上流端で中山道と連絡する上野国倉賀野河岸(高崎市)から河口の飯沼河岸(銚子市)まで利根川本流・支流の各所におびただしい数の河岸が設けられ、銚子や足尾などから高瀬舟で各河岸へ年貢米や足尾銅山の銅、特産物[注 35]が輸送された。河岸の発展に伴い荷の積み下ろしを生業とする河岸問屋が成立し、そこに旅籠など様々な店舗が開業して人口が増加し一つの町が形成された。例えば下総国境河岸(猿島郡境町)では1785年天明5年)時点で409戸、1,851人が暮らしている[213]。しかし河岸の多くは市場構造や商品流通構造の変化、さらに河川が運搬する土砂による航行の支障などがあり盛衰を繰り返し、荷物の運搬を巡る河岸間の紛争も続発。最終的に水戸街道に近く那珂川水運で運搬された荷物の運搬に至便な下総国布施河岸(我孫子市)が1724年(享保8年)に幕府評定所の裁決で公認ルートとして認可され、鬼怒川・利根川下流の物流を独占して繁栄した[214]

明治に入っても引き続き利根川の水運は活発で、1871年(明治4年)には汽船が就航。内国通運(現日本通運)の通運丸など数十隻の汽船が利根川を航行した[215]。こうした中1878年(明治11年)に内務卿大久保利通は北上川から東京湾を結ぶ内陸運河構想を『一般殖産及華士族授産ノ儀ニ付伺』として太政大臣三条実美に建議した。この構想では印旛沼を利用した運河建設が提案されていたが紀尾井坂の変で大久保が暗殺された後、茨城県令人見寧1884年(明治17年)5月に『茨城県五工事起業提言』を太政官に提出。大久保の印旛沼運河に替わる運河として利根運河の建設を提案した。これに対し千葉県は当初反対したが、当時利根川改修計画を進めていた内務卿・山田顕義が予定地視察後に運河建設をヨハニス・デ・レーケ、後に改修計画立案の中心となるローウェンホルスト・ムルデルに命じると賛成に転じ、1888年(明治21年)運河工事が開始された[216]。1890年に完成した利根運河の開通で東京 - 鬼怒川・銚子間航路は従来の関宿経由に比べ38kmの航路短縮と、3日の行程を1日に短縮する効果があり利用船舶は激増。翌1891年には1日平均103隻、年間3万7594隻が航行している[217]。運営には利根運河株式会社が設立され、運河の管理を行っていた。

しかし鉄道や道路整備といった陸上交通網の発達(後述)は次第に水運自体を衰退させ、利根運河も1935年には1日平均20隻以下にまで利用船舶が落ち込み、1941年7月洪水で堤防が決壊し運河自体の使用が不能になった。


是非お友達にも!
★暇つぶし何某★

[次ページ]
[記事の検索]
[おまかせリスト]
[ブックマーク登録]
[mixiチェック!]
[Twitterに投稿]
[オプション/リンク一覧]
[話題のニュース]
[列車運行情報]
[暇つぶしWikipedia]

Size:388 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:FIRTREE