利根川
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利根川改修計画と増補計画 渡良瀬遊水地空撮。 渡良瀬遊水地概要図。 江戸川水閘門(1)と行徳可動堰(2)空撮写真[95]

1868年(明治元年)に明治政府が誕生し、行政機構は大きな変化を遂げた。河川行政については数多の変遷を経て1874年(明治7年)に内務省が終戦後まで管掌することになり、利根川には1875年(明治8年)6月16日内務省土木寮利根川出張所が設置された。この出張所が現在の国土交通省関東地方整備局の発祥となる[96]。また1896年には旧河川法が公布され、利根川は同法の適用を受ける河川に指定された。以後、内務省主導による利根川の治水事業が進められていく。

政府はオランダ式治水工法を日本各地の河川に導入するためファン・ドールンを招き1872年(明治5年)に利根川の測量調査などを進めたが[97]、具体化されたのは1886年(明治19年)にローウェンホルスト・ムルデルによって立案された利根川改修計画である[98]。これは現在の群馬県佐波郡玉村町から利根川河口までを対象に治水上の要所に堤防を築いて水害に対処するほか、利根運河を開削して水運の便を改良することが骨子であった。この時初めて利根川の計画高水流量が算出され、毎秒3,750m3に定められた[99]。計画は第1期から第3期まで3分割で進められ、この間1890年(明治23年)には利根運河が完成した。

しかし1910年(明治43年)8月、関東地方を二つの台風が連続して襲来しそれに伴う前線の活発化によって利根川は当時最悪の洪水をもたらした。この「明治43年8月洪水」は死者769名を出す大災害となり、利根川は中流部において北は現在の前橋市・みどり市、西は富岡市から東は野田市、南は川越市に至る広範囲が浸水し関東平野中央部が一つの巨大な湖になった[100]。この水害を機に先の利根川改修計画は同年改訂され計画高水流量は毎秒5,570m3に上方修正された。この時事業計画に上ったのが渡良瀬遊水地であり、当時深刻化していた足尾鉱毒事件鉱毒問題解決に治水目的を付加させるとして正式な事業となった[101]。このほか堤防や護岸建設、横利根閘門1921年)・印旛水門1922年)・小野川水門(1923年)の新設、利根川下流の新河道開削(1889年 - 1922年)、権現堂川の利根川との締切(1926年)が本流域で施工され[102]、江戸川では分流部に関宿水門と関宿高水路(1927年)を建設して利根川からの分流量を調節するほか、下流部では江戸川放水路を開削(1920年)し流下能力を増強させた。これら一連の利根川改修計画は江戸川放水路の補修が完了した1930年(昭和5年)に一応の完成を見た[103]。この間1923年(大正12年)の関東大震災により利根川中流部で堤防の損壊が116箇所発生し、その復旧も行われている[104]

利根川改修計画が完成した後も利根川の洪水は度々発生し1935年(昭和10年)9月1938年(昭和13年)6月 - 7月1941年(昭和16年)7月には改修計画で定めた計画高水流量をはるかに上回る洪水が記録された。特に1938年の洪水は利根川下流部で浸水被害が深刻となり、往時の香取海が再現されたかの浸水範囲となった[105]。事態を重視した内務省は改修計画に替わる新しい利根川の治水計画策定を検討、荒川放水路建設の総指揮を執った内務省内務技監青山士(あきら)を委員長とする「利根川治水専門委員会」を設立。計画高水流量を一挙に毎秒1万m3に改める利根川改修増補計画が1938年に第73回帝国議会で承認され、翌1939年(昭和14年)より着手された[106]。この計画における主要事業は渡良瀬遊水地の洪水調節池化と、利根川放水路の建設にある。それまでの渡良瀬遊水地は洪水時に自然に貯留する性格のものであったが、遊水地周囲を堤防で囲み洪水時にはより多くの河水を貯水する調整池に改良する計画とした。一方利根川放水路計画は現在の千葉県我孫子市布佐(JR布佐駅付近)を起点として印旛沼西端を通過し、現在の千葉市花見川区検見川町と海浜幕張間付近で東京湾に至る総延長27kmの放水路を建設し、利根川下流の水位を2m減少させるほか手賀沼・印旛沼の治水と干拓、利根運河に代わる大規模運河としての利用、さらに掘削残土を埋立地に利用して工業地帯を造成するという多目的の放水路計画である。このほか田中・菅生調節池(利根川)の新規遊水池計画、小貝川付替計画、利根運河の放水路化、利根川中流部の堤防強化が事業内容に盛り込まれた[107]

計画はまず緊急な対応が迫られていた昭和10年9月洪水の被害地周辺部の堤防強化を優先、利根川応急増補工事として1937年(昭和12年)に前倒しで開始された。渡良瀬遊水地は堤防建設を開始。利根運河は利根運河株式会社から内務省が運河を買収して利根川からの締切と掘削工事を開始、小貝川では岡堰の可動堰化工事などが開始されたが利根川放水路については用地買収が遅々として進まず、その上太平洋戦争の激化により予算・資材・人員不足が深刻化。増補計画は一時中断した状態で終戦を迎えた[108]。このため利根川の治水は不完全な状態となり治水安全上の不安が憂慮されたが、それは戦後直ちに現実のものとなる。
利根特定地域総合開発計画ダム事業に関する詳細は利根川水系8ダム、総合開発全体の流れについては河川総合開発事業をそれぞれ参照。 カスリーン台風における利根川氾濫図。中流部は広く浸水している[109]。自治体名は現在のもの。 利根川決壊後の浸水拡大図。東京都江戸川区まで濁流が押し寄せた。

1947年(昭和22年)9月、利根川流域をカスリーン台風が襲った。過去に例を見ない記録的な豪雨は戦前・戦中の乱伐による山林荒廃と相まって利根川流域に致命的な被害を与えた。特に利根川は現在の埼玉県加須市、旧大利根町付近で堤防が決壊し濁流は埼玉県のみならず東京都葛飾区江戸川区にまで達した。また烏川流域、渡良瀬川流域はほぼ全域が浸水し利根川中流部はまたもや一面湖となった。死者・行方不明者は日本全国で1,910名であったが利根川流域だけで1,100名が死亡している[110]。当時の日本は治水事業の停滞と森林の乱伐による荒廃により各地で水害が頻発。人的・経済的被害は膨大なものとなっていた。水害の続発が敗戦で疲弊した日本経済にさらなる悪影響を及ぼすことを懸念した内閣経済安定本部は、内務省解体後河川行政を継承した建設省に対し新たな河川改修計画の作成を命じた。これが河川改訂改修計画であり、日本の主要10水系[注 14]を対象に治水・砂防の総合的対策が検討された。この中で利根川は従来の利根川改修増補計画をさらに改定した利根川改訂改修計画が1949年(昭和24年)に策定されたが、この際に導入されたのがダムによる治水対策である。

既に利根川水系では1926年、鬼怒川支流の男鹿川に五十里(いかり)ダムを建設する計画が立てられていたが、地質の問題や戦争などがあり事業は中断していた。しかしカスリーン台風の被害を受けて利根川の計画高水流量は毎秒1万7000m3に上方修正され、内毎秒1万4000m3を堤防、渡良瀬・田中・菅生・稲戸井の四遊水池および利根川放水路にて調節し、残り毎秒3,000m3を上流のダム群で調節する方針が採られた。この時利根川上流域では19箇所のダム建設候補地が検討されたが、最終的に決定を見たのは藤原沼田(利根川)、相俣(赤谷川)、薗原片品川)、八ッ場(吾妻川)、坂原神流川下久保ダムの前身)の6ダム計画であった。また鬼怒川では五十里ダムに加え川俣ダム(鬼怒川)が、渡良瀬川では草木ダムの前身にあたる神戸ダム(渡良瀬川)が計画される。これらのダム計画は1956年(昭和31年)の五十里ダムを皮切りに藤原(1957年)、相俣(1959年)の各ダムが完成し、ダム事業は進展を見る。


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