利根川
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中世以前中世の利根川流路は、荒川を合流させ東京湾に注ぐ流路であった。渡良瀬川鬼怒川は独立した水系である。1590年天正18年)の小田原征伐において忍城水攻めのために石田三成が築いた石田堤(埼玉県行田市)。

江戸時代よりも前の利根川は、現在のように銚子市で太平洋に注ぐ形態を取っていなかった。当時は埼玉県羽生市上川俣で東と南の二股に分かれた後、南への分流(会の川)は南東に流路を取り、加須市川口で合流後再び本流となり現在の大落古利根川の流路をたどり荒川(現在の元荒川)などを合わせ、江戸湾(東京湾)へと注いだ。また当時「太日川」という名称であった渡良瀬川は独立した河川として、現在の江戸川の流路を取りながら利根川と並走するように江戸湾へ流れた。鬼怒川は同じく独立した河川として小貝川を併せ、香取海に注ぐ形態だった。利根川の本流は1457年康正3年/長禄元年)に太田資長(道灌)が現在の埼玉県春日部市から草加市を経て江戸湾に注ぐ河川を本流に定めたとされている[69]。また上流部のうち前橋市付近では現在よりも東側、すなわち広瀬川の流路をたどり、現在の伊勢崎市付近で烏川と合流していたが1543年天文12年)[注 6]の洪水によって現在の流路が定まった[70]。このように複雑な流路を形成していた利根川は洪水により頻繁に流路が変わり、流域は度重なる水害に襲われていた。記録に残る最も古い洪水の記録は、奈良時代758年天平宝字2年)における鬼怒川の洪水で、「毛野(鬼怒)川氾濫して二千余頃[注 7]の良田を荒廃に帰せしめ・・・」と被害が記されている[71]

利根川流域において初めて治水事業が実施されたのは768年神護景雲2年)、鬼怒川筋での流路付け替えである[72]。一方利水については645年大化の改新後施行された班田収授法条里制が利根川流域にも実施されたのが初見であり、群馬県高崎市や太田市、茨城県南部、埼玉県北部にその遺構が確認されている[73]。中世利根川流域の河川開発に積極的だったのは鎌倉幕府で、将軍だった源頼朝1194年建久5年)には利根川では初となる堤防の建設を武蔵国で施工した。続いて1199年建久10年/正治元年)4月、頼朝は東国の地頭に対して農業用水を開発して開墾を行う命令を下した[74]。その後も幕府による利根川の開発は続けられ、1207年建永2年)3月幕府は北条時房に武蔵国の開発を命じている[74]。治水事業についても1232年寛喜4年/貞永元年)には執権北条泰時の命により現在の埼玉県熊谷市に柿沼堤が、1253年建長5年)には執権北条時頼の命により現在の茨城県猿島郡五霞町付近、下総国下河辺に堤防が築かれている[75]。これにより鎌倉時代の田地は平安時代に比べ約1万6000町歩も多い6万6710町歩となったことが『拾芥抄』に記されており、流域の農地開発は大いに進展した[74]

室町時代の利根川流域は鎌倉公方の支配下にあったが政情は不安定で度々戦乱が勃発。治水・利水事業では見るべきものがなかった。戦国時代に入り利根川流域は伊豆国より勢力を伸ばした後北条氏により支配されたが、4代目当主北条氏政の代である1576年天正4年)に長さ900mの権現堂堤権現堂川に建設されている[75]安土桃山時代に移り天下統一に向けて活発な軍事行動を繰り広げていた豊臣秀吉は、臣従の姿勢を見せない後北条氏に対し1590年(天正18年)小田原征伐を起こすが、この際石田三成らに対して武蔵国忍城水攻めにするよう命令した。6月三成は雨季で増水している利根川・荒川の河水を堤防で堰き止め、忍城を水没させて降伏・開城させる方針を採った。しかし地形上の影響で城内を浸水させることはできず、却って堤防が決壊し豊臣軍に大勢の犠牲者を出した。結局忍城は7月16日、後北条氏の本拠である小田原城開城後に降伏することになる。この時三成によって築造された堤防を石田堤と呼び、自然堤防などを利用した全長28kmの堤防を一週間で築き上げている[76]。ただしこの堤防は軍事的側面で建設されたもので、利根川の治水には何ら関係がない。
江戸前期の河川事業詳細は「利根川東遷事業」を参照伊奈忠次銅像(茨城県水戸市)。利根川河川事業の基礎を築いた。名所江戸百景』に描かれた葛西用水路


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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