八坂神社
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この項目では、京都市東山区の総本社について説明しています。その他の八坂神社については「八坂神社 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

八坂神社

西楼門(重要文化財)
所在地京都府京都市東山区祇園町北側625番地
位置北緯35度0分13秒
東経135度46分43秒座標: 北緯35度0分13秒 東経135度46分43秒
主祭神素戔嗚尊
櫛稲田姫命
八柱御子神
社格二十二社(下八社)
官幣大社
別表神社
創建(伝)斉明天皇2年(656年
本殿の様式祇園造(八坂造)
例祭6月15日
主な神事祇園祭(7月)
白朮祭1月1日
地図
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八坂神社(やさかじんじゃ)は、京都府京都市東山区祇園町北側にある神社二十二社(下八社)の一社。旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社

全国にある八坂神社素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社である主張をしている。通称として祇園さんとも呼ばれる。7月の祇園祭(祇園会)で知られる。 本殿(重要文化財) 舞殿 南楼門 絵馬殿
目次

1 社名について

2 概要

3 祭神

4 歴史

5 摂末社

5.1 摂社

5.2 末社

5.3 御旅所(境外社)


6 主な祭事

7 文化財

7.1 重要文化財


8 現地情報

9 境内

10 脚注

11 参考文献

12 関連項目

13 外部リンク

社名について

元の祭神であった牛頭天王祇園精舎守護神であるとされていたことから、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、慶応4年=明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と改名された。
概要

京都盆地東部、四条通の東のつき当たりに鎮座する。境内東側にはしだれ桜で有名な円山公園が隣接していることもあって、地元の氏神(産土)としての信仰を集めるとともに観光地としても多くの人が訪れている。

正月三が日の初詣の参拝者数は近年では約100万人と京都府下では伏見稲荷大社に次ぐ2位となっている。また東西南北四方から人の出入りが可能なため、楼門が閉じられることはなく伏見稲荷大社と同じように夜間でも参拝することが出来る(防犯のため、監視カメラ設置。また、夜間でも有人の警備は行われている)。
祭神

現在の祭神は以下の通り。
主祭神


中御座:
素戔嗚尊 (すさのおのみこと)

東御座:櫛稲田姫命 (くし(い)なだひめのみこと) - 素戔嗚尊の妻

西御座:八柱御子神 (やはしらのみこがみ) - 素戔嗚尊の8人の子供(八島篠見神五十猛神大屋比売神抓津比売神大年神宇迦之御魂神大屋毘古神須勢理毘売命)の総称

配神


(東御座に同座) 神大市比売命、佐美良比売命 - いずれも素戔嗚尊の妻

(西御座に御座) 稲田宮主須賀之八耳神


明治時代の神仏判然令以前は、主祭神は以下の3柱であった[1]

中の座:牛頭天王 (ごずてんのう)

東の座:八王子 (はちおうじ)

西の座:頗梨采女 (はりさいにょ・ばりうねめ)

牛頭天王は起源不詳の習合神祇園精舎を守護するとされ、日本では素戔嗚尊と同神とされていた。頗梨采女は牛頭天王の后神であることから素戔嗚の后である櫛稲田姫命と同一視された。櫛稲田姫命は方角の吉方(恵方)を司る歳徳神(としとくしん)と同一と見なされていた事もあり暦神としても信仰された。八王子は牛頭天王の8人の王子であり、暦神の八将神に比定された。[2]

また、東御座には社伝に明確な記述が無い蛇毒気神(だどくけのかみ)が祭られている。この神は沙渇羅(さから)龍王の娘で今御前(第二婦人のこと)と呼ばれる[3]。または、ヤマタノオロチが変化したものとも考えられている。
歴史

社伝によれば、斉明天皇2年(656年)、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建とされる。

牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされるが、実際にはインド、中国、朝鮮において信仰された形跡はなく、日本独自の神である。名は新羅の牛頭山に由来するのだという説があるが、これも定説にはなっていない。そして山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まるとする。

しかし、上記の伊利之使主創建説は現存する歴史資料からは根拠に乏しいものと批判されている。戦後における祇園社の創祀についての先駆的な学術的研究は久保田収の「祇園社の創祀について」[4]であり、これは今日においても一定の支持を得ている。
久保田は同論文において史料を詳細に検討した結果、祇園社は貞観18年(876年)僧・円如が寺院を建立し、ほどなく祇園神が垂迹したものと結論づけている。なお、中世において吉田神道に採用され、江戸時代には通説化していた播磨国広峯遷座説については、平安時代の史料に全くあらわれず鎌倉時代以降に広峯社側から主張しはじめたとの文献検討の結果、これを否定している。

祭神は当初は「祇園天神」または「天神」とだけ呼称されており、牛頭天王(およびそれに習合した素戔嗚尊)の名が文献上は出てこないことから、最初は牛頭天王・素戔嗚尊とは異なる天神が祭神であり、やがて(遅くとも鎌倉時代には)牛頭天王と素戔嗚尊が相次いで習合したものと考えられている。

古くからある神社であるが、延喜式神名帳には記されていない。これは神仏習合の色あいが濃く当初は興福寺、次いで延暦寺の支配を受けていたことから、神社ではなく寺とみなされていたためと見られるが、後の二十二社の一社にはなっており、神社としても見られていたことがわかる。平安時代中期ごろから一帯の産土神として信仰されるようになり、朝廷からも篤い崇敬を受けた。

祇園祭は、貞観11年(869年)に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、天禄元年(970年)ごろから当社の祭礼として毎年行われるようになった。

祇園社は当初は興福寺の末社であったが、10世紀末に戦争により延暦寺がその末寺とした。


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