倭寇
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倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の中国・朝鮮側の呼称[1]。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)、八幡(ばはん)とも呼ばれる。 倭寇
目次

1 概要

2 名称

3 倭寇の原因

3.1 元寇の報復説

3.1.1 日蓮註画讃

3.1.2 一谷入道御書


3.2 明に抵抗する勢力による扇動説

3.3 藤経光誘殺未遂の報復説


4 前期倭寇

4.1 前期倭寇と高麗

4.1.1 南北朝時代の政治動乱と倭寇


4.2 明朝と南北朝と前期倭寇

4.3 応永の外寇

4.4 偽装倭寇


5 後期倭寇

6 倭寇の構成員に関する学説

6.1 高麗の賤民の関与(田中説)

6.2 「境界人」説(村井説、他)

6.3 後期倭寇


7 倭寇の影響

8 活動地域

8.1 武術


9 倭寇以後の東アジア海上世界

9.1 八幡船


10 脚注

11 参考文献

12 外部リンク

13 関連項目

概要

倭寇の歴史は大きく見た時に前期倭寇(14世紀前後)と、過渡期を経た後期倭寇(16世紀)の二つに分けられる。

前期倭寇は主に瀬戸内海北九州を本拠とした日本人で一部が高麗人であり、主として朝鮮沿岸を活動の舞台として中国沿岸にも及んだが、李氏朝鮮対馬を中心とする統制貿易、日明勘合貿易の発展とともに消滅した[1]。高麗王朝の滅亡を早めた一因ともいわれる[1]

後期倭寇は明の海禁政策による懲罰を避けるためマラッカシャムパタニなどに移住した中国人(浙江省福建省出身者)が多数派で一部に日本人(対馬、壱岐松浦五島薩摩など九州沿岸の出身者)をはじめポルトガル人など諸民族を含んでいたと推測されているが[2]、複数の学説がある。主として東シナ海南洋方面を活動舞台にしていたが、明の海防の強化と、日本国内を統一した豊臣秀吉海賊停止令で姿を消した[1]
名称

字句をそのまま解釈すれば、倭寇とは「(日本)による侵略」という意味で、中国、朝鮮では日本人海賊を意味する。使用例は5世紀(404年)の高句麗広開土王碑の条文にも見られるが、後世の意味とは異なる。

ここに見られる『倭、○○(地名)を寇す』という表現の漢文表記では『倭寇○○』のように「倭寇」の2字が連結しており、これが後に名詞として独立したと考えられている。

また、16世紀の豊臣秀吉文禄・慶長の役や、日中戦争における日本軍も「倭寇」と呼ばれるなど、朝鮮半島や中国において排日感情の表現として使用される事がある。現代でも、韓国人や中国人が日本人を侮蔑するときに用いており、「野蛮人」のニュアンスを含む。

今日では中国人、朝鮮・韓国人が『倭』を侮蔑的または差別的に使用しているが、「倭」の本来の意味は説文解字にある通り、『は、(かたち・様子に従う)』であり、『矮』とは違い小柄やチビなどを意味していない[3]
倭寇の原因
元寇の報復説

対馬や壱岐の元寇がどのようであったかは日蓮註画讃や一谷入道御書による記載が残っている。三田村泰助は、北部九州は元寇の最大の被害者だったから、対馬・壱岐・肥前国が根拠地の松浦党の海賊が「侵略者の片われである高麗に報復してあたりまえのことで、いささかのうしろめたさもなかったであろう。」「心がまえとしては、さらさら海賊行為ではなかった」としている[4]。もともとは元寇に対する報復の意味があることは中国側も認めており、朱元璋が日本におくった文では、「倭兵は蛮族である元のおとろえに乗じただけだ」としている[5]
日蓮註画讃

第五「蒙古來」篇)

『二島百姓等。男或殺或捕。女集一所。徹手結附船。不被虜者。無一人不害』「壱岐対馬の二島の男は、あるいは殺しあるいは捕らえ、女を一カ所に集め、手をとおして船に結わえ付ける。虜者は一人として害されざるものなし」

一谷入道御書

(建治元年五月八日)

「百姓等は男をば或は殺し、或は生取りにし、女をば或は取り集めて、手をとおして船に結び付け、或は生取りにす。一人も助かる者なし」

明に抵抗する勢力による扇動説

「明が興り、太祖高皇帝(朱元璋)が即位し、方国珍・張士誠らがあい継いで誅せられると、地方の有力者で明に服さぬ者たちが日本に亡命し、日本の島民を寄せ集めて、しばしば山東の海岸地帯の州県に侵入した」[6]
藤経光誘殺未遂の報復説

「高麗史」によれば、1375年の藤経光誘殺未遂によって倭寇が激怒し、高麗住民の無差別殺戮に出るようになったと記している[7]。詳細は「高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻」を参照
前期倭寇

前期倭寇が活動していたのは14世紀、日本の時代区分では南北朝時代から室町時代初期、朝鮮では高麗から朝鮮王朝の初期にあたる。日本では北朝を奉じて室町幕府を開いた足利氏と、吉野へ逃れた南朝が全国規模で争っており、中央の統制がゆるく倭寇も活動し易かった。
前期倭寇と高麗

高麗史』によれば1350(庚寅)年2月「倭寇の侵すは此より始まる」という記事があり、これが当時の公式見解であったようだが、庚寅年以前にも多数の記事がある。文献によると最も古いのは『高麗史』によれば高宗10年(1223年)5月条「倭寇金州」とあるのが初出である。これ以後史料には頻繁に現れている。

1370年代の前期倭寇の行動範囲は朝鮮北部沿岸にも及び南部では内陸深くまで侵入するようになった。倭寇の被害を中心的に受けていた高麗では1376年には崔瑩が鴻山で、1380年には、李成桂が荒山、崔茂宣羅世が鎮浦で、1383年には鄭地らが南海島観音浦で、倭寇軍に大打撃を与え、1389年朴?による対馬国侵攻では、倭寇船300余隻を撃破し、捕虜を救出し、その後、町を焼き討ちして帰還した[8]。これ以降倭寇の侵入は激減する[8]

なお、『高麗史』によれば、高麗宗主国であるに上奏し、元寇以降もさかんに軍艦を建造しており、日本侵攻を繰り返すことになるが、これは、対馬を拠点とする倭寇討伐や日本侵略を口実に元や明の大軍が再び自国に長期駐留して横暴を極めることをおそれたあまりの「先走り」だとされる[9]
南北朝時代の政治動乱と倭寇

斎藤満は高麗史にでてくる「倭国」を南朝(征西府)だと推定しており[10]、ほかにも倭寇の首領が日本の精鋭部隊と同じ装備で、南北朝の争いによる統制の緩みに乗じて日本の正規の精鋭部隊が物資の略奪に参加したという意見もある[11][12]


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