交換船
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横浜港に戻った第1次日英交換船の鎌倉丸

交換船(こうかんせん)とは、第二次世界大戦当時に、開戦により枢軸国連合国双方の交戦国や断交国に取り残された外交官や駐在員、留学生などを帰国させるために運航されたのことである。戦時交換船や抑留者交換船などとも呼ばれる。


目次

1 いきさつ

2 運航概要

2.1 運航船舶の船籍

2.2 航海中の安全保障


3 ルート

3.1 第一次日米交換船

3.1.1 日本側

3.1.2 アメリカ側


3.2 第二次日米交換船

3.2.1 日本側

3.2.2 アメリカ側


3.3 第三次日米交換船(計画のみ)

3.4 日英交換船

3.4.1 日本側

3.4.2 イギリス側

3.4.2.1 イギリス

3.4.2.2 イギリス領インド

3.4.2.3 オーストラリア




4 乗客

4.1 国籍

4.2 交換対象者の身分

4.3 主な乗船客

4.3.1 日本側

4.3.2 英米側


4.4 その他の「乗客」

4.4.1 諜報員

4.4.2 返還遺骨



5 帰国後

6 他国の交換船

6.1 イタリア/ドイツとイギリス

6.2 イタリア/ドイツとアメリカ


7 脚注

8 参考文献

9 関連項目

10 外部リンク


いきさつイギリス領マレーのクアラルンプール市街を進む日本軍ロサンゼルスリトル東京

1941年12月8日に、日本軍がマレー作戦を発動しイギリスイギリス連邦諸国の間に開戦し、続いてアメリカオランダオーストラリアニュージーランドなどの連合国との間で開戦した。

その後、両陣営において、開戦により交戦国や断交国に残された外交官や民間人(企業の駐在員や宗教関係者、研究者留学生とそれらに帯同した家族などの一時在住者)の帰国方法が問題になった。

しかし、開戦後に両陣営の国家同士の国交が断絶され、それぞれの国に駐在する外交官の資格が停止されたことに伴い、政府間の直接交渉が不可能になったことから、まずアメリカの国務省が、12月17日中立国であるスイスを経由して日本の外務省に交換船の運航を打診し、その後、スイスやポルトガルスウェーデンなどの中立国を通じて日本とイギリス、アメリカの各外務省担当者が交渉を行った[1]

さらにブラジルペルーパナマメキシコなど、かねてから日本人在留者が多かった一部南米諸国もアメリカからの圧力を受けて1942年1月に日本との国交を断絶した上に、日本軍がイギリス領マラヤやイギリス領香港イギリス領ビルマアメリカ領フィリピンなどにいた各植民地軍を瞬く間に放逐したため、これらの地の残留外交官と残留民間人の扱いも議題に上がることとなった。

その結果、1942年5月に両陣営の間で残留外交官と残留民間人の交換に関する協定が結ばれ、日本(とその占領地と植民地、ならびに満州国タイなどその同盟国)とアメリカ(とブラジルやカナダなどその近隣の同盟国)の間については1942年6月と1943年9月の2回、日本とイギリス(とその植民地、ならびにオーストラリアやニュージーランドなどのイギリス連邦諸国)との間については1942年8月の1回、合計3回の交換船が運航されることになった。

またこれとは別に、1945年に日米間のみで新たな協定を結び、中立国を通じて交渉を行い同年8月以降に3回目の交換船を運航する予定であったが、同年8月15日の日本の連合国に対する敗戦と戦闘停止を受けて中止となった[2]
運航概要
運航船舶の船籍浅間丸グリップスホルム

交換時において中立国への寄港が行われることから、戦時国際法に沿って「交換船として運航される全ての船舶はすべて民間籍であること」と定められた。

当時日本とイギリス、アメリカは総力戦の真っただ中であったため、各国において交換船として使用されるような大型船舶は殆ど全て戦時徴用されていたものの、交換船として運航されることが決まった船舶は一時的に戦時徴用を解かれ、名目上は日本郵船などの民間籍に戻され運航されることとなった。

なお、第一次及び第二次日米交換船においてアメリカ側では、中立国であるスウェーデンのスウィーディシュ・アメリカン・ライン社の「グリップスホルム」を借り上げて使用した。
航海中の安全保障

なお、世界各国で激戦が繰り広げられていた最中に交換船が運航されることに際し、全ての交戦国から交換船に対して国際法に基づき「セーフコンダクト」(en)が与えられ、航路周辺に展開する全ての交戦国の軍隊に対して交換船の運航が通告され、その運航上の安全が保障された。

さらに、安全を期するために交換船から付近を航行する船や地上基地に対して定期的に現在地の報告が行われた他、船腹には白十字の塗装と、夜間でも認識できるように照明が施された。なお、日本海軍による遣独潜水艦作戦中の第一次遣独艦が、南アフリカ沖で交換船を誤って攻撃しそうになったが、直前に船体に照明で照らされた白十字に気づき撃沈を回避している[3]

また、交換船によるスパイ活動などの軍事活動が行われていないかという点や、両国民の交換が適正に行われているかを監視するために、中立国の外交官や、一時的に外交官の資格を与えられた民間人が交換監視員として乗船していた。
ルート

日本からの交換船は、浅間丸コンテ・ヴェルデ1940年10月のイタリアの第二次世界大戦参戦で、中華民国上海から帰国不能となり、日伊間の合意の下で日本海軍に戦時徴用され、交換船として使用されるために日本郵船籍に移された枢軸国のイタリア船)、龍田丸などの客船がイギリス人やアメリカ人などを乗せ、イギリス、アメリカ側からの交換船は、中立国のスウェーデンの客船であるグリップスホルムなどが日本人や同盟国やタイ王国人などを乗せ、交換地となった東アフリカにあるポルトガル領東アフリカのロレンソ・マルケス(現在のモザンビークのマプート)に向かい、到着後に乗客を交換するというものであった。


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