井上毅
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日本政治家井上 毅いのうえ こわし

生年月日1844年2月6日
天保15年12月18日
出生地 日本 肥後国熊本城
没年月日(1895-03-17) 1895年3月17日(51歳没)
死没地 日本 神奈川県三浦郡田越村
(現・逗子市
称号子爵
配偶者井上常子(前妻)
井上鶴子(後妻)
子女長女:井上富士子
次女:早瀬とき
三女:山田いと
親族井上匡四郎(養嗣子)
第7代 文部大臣
内閣第2次伊藤内閣
在任期間1893年3月7日 - 1894年8月29日
第2代 法制局長官
内閣第1次伊藤内閣
黒田内閣
第1次山縣内閣
在任期間1888年2月7日 - 1891年5月8日
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井上 毅(いのうえ こわし、天保14年12月18日1844年2月6日) - 明治28年(1895年3月17日)は、日本武士官僚政治家である。子爵法制局長官文部大臣などを歴任する。同時代の政治家・井上馨とは血縁関係は無い。


目次

1 概説

2 生涯

2.1 熊本藩下の秀才

2.2 明治政府の官僚

2.3 憲法設計に携わる

2.4 政治諸問題の対処

2.5 学校・教育改革


3 人物

3.1 思想

3.2 伊藤博文との関係

3.3 教育勅語への関与


4 評価

5 来歴

6 栄典

7 系譜

8 家族

9 著作

10 脚注

11 参考文献

12 関連文献

13 関連項目

14 外部リンク


概説

肥後国熊本藩家老長岡是容(監物)の家臣・飯田家に生まれ井上茂三郎の養子になる。必由堂、藩校時習館で学び、江戸長崎へ遊学。明治維新後は大学南校で学び明治政府の司法省に仕官、1年かけた西欧視察におもむく。帰国後に大久保利通に登用され、その死後は岩倉具視に重用される。明治十四年の政変では岩倉具視、伊藤博文派に属する。

安定政権を作れる政府与党が出来る環境にない現在の日本で議院内閣制を導入することの不可を説いて、ドイツ式の国家体制樹立を説き、国学等にも通じ、伊藤と共に大日本帝国憲法皇室典範教育勅語軍人勅諭などの起草に参加した。法制局長官枢密顧問官第2次伊藤内閣の文部大臣を歴任。
生涯
熊本藩下の秀才

天保14年12月18日(1844年2月6日)、肥後熊本藩家老・長岡是容の家臣・飯田権五兵衛の3男として、熊本城下の長岡家下屋敷の長屋に生まれる。父は年米25俵の下級武士で、母美恵は同じ長岡家家臣神山家の出身。幼名は多久馬。号は独々斎、または梧陰。

幼少時から神童ともてはやされ、家事をしながら読書を欠かさずこなし、勉強熱心な姿勢が主君・長岡是容に気に入られ、嘉永5年(1852年)1月に長岡家の家塾・必由堂に入れられ、安政4年(1857年)6月までの5年間を過ごした。続いて同年7月に是容の推薦で儒学者木下犀潭(?村)の塾へ入門、そこで頭角を現し竹添進一郎古荘嘉門・木村弦雄と共に秀才として注目され、文久2年(1862年)9月に陪臣ながら木下の推薦で藩校時習館の居寮生となった。

慶応2年(1866年)、井上茂三郎の養子になり姓を井上に替える(明治5年(1872年)には名も替え、多久馬から毅へ改名)。同年2月に学習課程を修了した後も時習館の寮で勉強を続け、元治元年(1864年)10月に蟄居していた横井小楠を尋ね討論を交わしたり(その時の様子を『沼山対話』として記録)、慶応3年(1867年)9月に江戸幕府が開設した横浜フランス語伝習所へ移ったが、同年10月の大政奉還で幕府が滅亡、翌慶応4年(明治元年、1868年)1月からの戊辰戦争による混乱で旅行は中止、4月に帰郷した。諦めず7月に長崎のフランス語伝習所へ転入したが、熊本藩が戊辰戦争で明治新政府へ味方すべく参戦、藩からの命令でやむなく長崎遊学も断念した。

8月に是容の息子米田虎雄が指揮する熊本藩兵に従軍、9月中に平潟から中村二本松など東北地方を巡った。戦いは既に先発の薩摩藩土佐藩などの官軍仙台藩会津藩など敵を蹴散らした後だったため、熊本藩兵は出番がなく9月22日に二本松から南下して29日に江戸へ戻り、10月19日に海路熊本へ帰藩した。従軍した井上は『北征日記』という日記を書いて鎌倉江の島などを旅行、帰藩後は年末から翌明治2年(1869年)10月まで藩の命令で長崎へ滞在している[1]
明治政府の官僚

明治3年(1870年)9月に貢進生として大学南校で学ぶ。ここで教員見習に当たる少舎長に就任、12月に中舎長に昇進したが、翌明治4年(1871年)2月に辞職、12月に明治政府の司法省に仕官し、フランス語ができたため司法卿江藤新平に随行する西欧使節団(8人)の一員として明治5年9月に横浜から出航して渡欧(江藤は加わらず)、フランス中心に司法制度の調査研究を行った。ドイツ・ベルリンでは法学会で自然法論に対抗して勃興した歴史法学を重視し、民法作成にローマ法ナポレオン法典を採用する拙速行為に反対する歴史法学を学んで、日本固有の文化・習慣・法律の保持を考えるようになり、ナポレオン法典翻訳による民法制定を企画していた江藤と思想の上で決別した。

翌6年(1873年9月6日に帰国、10月に明治六年政変で江藤が下野した後は大久保利通に登用され、明治7年(1874年)2月に佐賀の乱鎮圧に向かった大久保に同行してかつての上司だった江藤の処刑を見届け、同年5月の台湾出兵を片付けるため8月にへ渡った大久保に随行、清の交渉文書の作成を任された。明治8年(1875年)にヨーロッパでの学習を元にした『王国建国法』を訳出、翌明治9年(1876年)に岩倉具視から憲法制定の諮問に応じて意見を提出、外国の憲法と聖徳太子十七条憲法貞永式目などとは君主の法的制限の有無が異なると性質の違いを挙げ、憲法制定と議会開設を同一に捉えて時勢変化の自覚を促す内容を書き記した[2]


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