中国
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この項目では、ユーラシア大陸東部の地域を指す「中国」という用語の意味・呼称の変遷について説明しています。

中国と呼称される1949年以降の国家については「中華人民共和国」をご覧ください。

かつて中国大陸外モンゴルを統治し、1949年以降は台湾地域のみを統治している国家については「中華民国」をご覧ください。

日本本州島西方に位置する地域については「中国地方」をご覧ください。

その他の用法については「中国 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、及びにそこで成立した国家社会をさす用語。中華と同義。

日本においては、中華民国の要請によって1946年から「支那」に代わる用語として一般的に使われるようになった(該当記事参照)。1972年日中国交正常化以降、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称としても使用されている[1][2][3]

本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照のこと。
目次

1 概要

2 史書に現れる「中国」

3 「中国」の意味の変遷

3.1 古典的用法

3.2 近代的用法


4 「中国」の呼称の変遷

4.1 「セリカ」

4.2 「秦」に由来する呼称

4.3 「漢」に由来する呼称

4.4 「拓跋」に由来する呼称

4.5 「唐」に由来する呼称

4.6 「契丹」に由来する呼称


5 脚注

6 関連項目

概要

現在、アジア大陸の東部に広がる一帯が「中国」と呼ばれている地域であり、中国大陸とそれに付随する島嶼にあたる。この地は中国大陸最多の人口を有する漢民族を始めとして、一時は中国全土を支配していたモンゴル等の様々な民族による複数の王朝が出現と滅亡、戦乱と統一(中国語版)を繰り返してきた。そのため、地域の文明や民族を広く指し、紀元前からの文明・国家群の歴史の総体をも含めて用いられている(中国文明中国史)。

代までの中国には「王朝」の概念はあれど「国家」の概念は無く、「天下あって国家無し」と言える状態だったため、王朝の名前が対外・対内的な呼称として用いられていた。しかし、19世紀半ばから中国も「世界の一体化」の流れに飲み込まれると、「中国」という用語が主権国家の自称として用いられるようになり、中華民国創立後は固有名詞としての性格を濃くしていった。1949年以降は、中国大陸を支配する中華人民共和国に対する略称としても用いられている。
史書に現れる「中国」

紀元前にはすでに「中国」(中國)の文字は史書に現れていた。

書経の「梓材」に現れるもの
皇天既付中國民越厥疆土于先王(皇天既に中國民と厥疆の土地を先の王に付す)

詩経の「大雅」の「生民之什」の章の中の「民勞」に現れるもの
民亦勞止 ?可小康 惠此中國 以綏四方 (この中国に恵あれ、四方安らかに)無縱詭隨 以謹無良 式遏寇虐 ?不畏明 柔遠能邇、以定我王

その後の歴代王朝の正史二十四史でも利用され続けているが、その範囲と概念は時代とともに変化している(後述)。
「中国」の意味の変遷
古典的用法

“中或”(中国) 銘文の紀元前11世紀何尊の銘文には「中国」という言葉がある 中華思想における世界観

中国(ちゅうごく)という用語は、中国の古典である『詩経』と『書経』で「地理的中心部」や「真ん中の国」という多元的な意味で用いられた。したがって、本来は特定の民族ないし国家を指す語ではない。ベトナムでは阮朝が自国を中国(チュンコック)と呼び、日本でも自国に対して葦原中国(あしはらのなかつくに)あるいは中国(なかつくに)という美称を用いている(但し、この場合の中国とは天津神が住む高天原と死者の国である黄泉の国の中間にある世界を表す)[4]

日本において朝貢する異族に対し、自国を中国と称した表記例は『続日本紀文武天皇3年(699年)7月19日条における「トク島(徳之島)人が中国に渡来するのは、この時から始まった」の一文である。一方、黄河流域で黄河文明を営んでいた漢民族の前身となった都市国家の民の国際社会では、「中国」という語は、王や覇者を中心とした秩序もこうしたものであった。その後、中華思想に基づく「文化的優越性を持った世界の中心」という意味を帯び、秦始皇帝のこの地域の諸民族の統一に発する中国歴代王朝の政治的・軍事的な境界を設定する中で、徐々に形成されていった漢民族意識のアイデンティティを境界付ける自称として拡張されていった。

中原」とは、黄河文明の発祥地である黄河中下流域に広がる平原のことであり、しばしば「中国」と同義とされるが、秦、漢王朝から支配される領土は「中国」とみられる。「秦始皇は中国を防衛のため長城に建てた」文書記載されている[5]。漢書溝恤志卷29では「中國川原以百數」(いにしえより中国には何百もの山と原があり)[6]、前漢昭帝時代に書かれたとされる『塩鉄論』では、景帝時代までの領土及び地域を「中国」と称している[7]。また、武帝が新規に征服した領域は「中国」と対置する領域として「辺境」と各所で記されてもいる[8]。しかし、武帝が新たに征服した領土を含む領域を「中国」と表現している箇所もある。武帝が支配した領域以外の地域を「外国」[9]と表記し、「外国」が「中国」と対置されている箇所があるからである[10]。このように、『塩鉄論』論争当事(始元6年(前81年))は、「中国」の概念は、武帝征服領土を含む場合と含まない場合の異なる表記が見られ、辺境郡を中国に含むかどうかで論者による認識のずれがあったようである。なお、周王朝時代の領域は「諸夏」[11]、漢高祖の平定領域は「九州」[12]、と各々使い分けて記載されている。以上のように、この時代には、既に「中国」の領域が「中原」よりも広い地域に拡大し、自民族の伝統的領域と認識されている一方、王朝の支配領域全てが「中国」と認識されているわけではない用例があることを伺い知ることができる。なお、『塩鉄論』には一箇所だけ「漢國」の表記があり[13]、概ね「漢」に支配される領土は「中国」と同義とみられる[14]

唐王朝に入ると「中国」の領域は更に拡大し、現在中国本土と呼ばれる領域が「中国」と認識されるようになっていた(例えば「唐興,蠻夷更盛衰,嘗與中國亢衡者有四:突厥吐蕃回鶻雲南是也」(新唐書列伝140巻「突厥上」という用例が唐代に出現する)。韓愈論仏骨表では「仏というものは、後漢代に中国に伝わったものであり、その前中国にはまだ仏は居なかったのです」と記している。

同時に「中国」は地理的な領域名だけではなく、「中国」が現時点で支配している領土を意味するようにもなっていた(新唐書列伝145東夷/高麗に「遼東故中國郡縣」(遼東は今は高句麗の領土であるが嘗ては中国の郡県であった)という文章がある)。同様の用例は明史列伝209「外国二/安南」の記載にもあり(「安南本中國地」(安南(ベトナム社会主義共和国の中北部)は、もとは中国の地であった)、「中国」の領域認識は支配領域の拡大縮小と連動する概念であった。

なお、通例では清朝末期以前は、「中国」は通史的意味合いを持たないとされているが、通史的な用例がまったくないわけではない。例えば「宋史列傳194儒林五/胡安國」では「自古中國強盛如漢武帝、唐太宗」(いにしえより中国は漢武帝唐太宗の如く強く盛んであった)という記載がある。


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