中国
[Wikipedia|▼Menu]

この項目では、ユーラシア大陸東部という意味での「中国」という用語の意味・呼称の変遷について説明しています。

中国と呼称される現在の国家については「中華人民共和国」をご覧ください。

現在の台湾や周辺の地域を統治している国家、かつて中国大陸モンゴルを統治した国家については「中華民国」をご覧ください。

日本本州島西方に位置する地域については「中国地方」をご覧ください。

その他の用法については「中国 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

中国

繁体字中國
簡体字中国

発音記号
標準中国語
漢語?音Zh?ngguo
ウェード式Chung-kuo
注音符号??? ????
その他官話
小児経??? ?????
呉語
ローマ字Tson平 koh入
?語
ローマ字Tung-koe?t
客家語
客家語?音Dung24 Gued2
粤語
イェール粤?J?nggwok
粤?Zung1 gwok3
?南語
?南語白話字Tiong-kok
?東語
福州語ローマ字D??ng-guok

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家社会中華と同義。

近年は[いつ?]、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている[1][2][3]。現在[いつ?]ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。

本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。


目次

1 概要

2 史書に現れる「中国」

3 「中国」の意味の変遷

3.1 古典的用法

3.2 近代的用法


4 「中国」の呼称の変遷

4.1 「セリカ」

4.2 「秦」に由来する呼称

4.3 「漢」に由来する呼称

4.4 「拓跋」に由来する呼称

4.5 「唐」に由来する呼称

4.6 「契丹」に由来する呼称


5 脚注

6 関連項目


概要

現在、アジア大陸の東部に広がる一帯が「中国」と呼ばれている地域であり、中国大陸とそれに付随する島嶼にあたる。現在[いつ?]の中国社会の中心的地位を占めている漢民族を始めとして、一時は中国全土を支配していたモンゴルなど、様々な民族による複数の王朝の出現、滅亡、戦乱を繰り返してきた。

代までの中国には「王朝」の概念はあれど「国家」の概念は無く、「天下あって国家無し」と言える状態だったため、王朝の名前が対外・対内的な呼称として用いられていた。19世紀半ば以降、中国が世界的な主権国家体制に組み込まれてゆく過程で、「中国」という用語が主権国家の自称として広く用いられるようになり、次第に固有名詞としての性格を濃くしていった。現在[いつ?]ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。また、その地域、文明、民族を広く指し、紀元前からの文明の総体をも含めて用いられている。
史書に現れる「中国」

紀元前にはすでに「中国」(中國)の文字は史書に現れていた。

書経の「梓材」に現れるもの
皇天既付中國民越厥疆土于先王(皇天既に中國民と厥疆の土地を先の王に付す)

詩経の「大雅」の「生民之什」の章の中の「民勞」に現れるもの
民亦勞止 ?可小康 惠此中國 以綏四方 (この中国に恵あれ、四方安らかに)無縱詭隨 以謹無良 式遏寇虐 ?不畏明 柔遠能邇、以定我王

その後の歴代王朝の正史二十四史でも利用され続けているが、その範囲と概念は時代とともに変化している(後述)。
「中国」の意味の変遷
古典的用法

“中或”(中国)銘文の紀元前11世紀何尊の銘文には「中国」という言葉がある中華思想における世界観

中国(ちゅうごく)という用語は、中国の古典である『詩経』と『書経』で「地理的中心部」や「真ん中の国」という多元的な意味で用いられた。 したがって、本来は特定の民族ないし国家を指す語ではない。ベトナムでは阮朝が自国を中国(チュンコック)と呼び、日本でも自国に対して葦原中国(あしはらのなかつくに)あるいは中国(なかつくに)という美称を用いている(但し、この場合の中国とは天津神が住む高天原と死者の国である黄泉の国の中間にある世界を表す)[4]

日本において朝貢する異族に対し、自国を中国と称した表記例は『続日本紀文武天皇3年(699年)7月19日条における「トク島(徳之島)人が中国に渡来するのは、この時から始まった」の一文である。一方、黄河流域で黄河文明を営んでいた漢民族の前身となった都市国家の民の国際社会では、「中国」という語は、王や覇者を中心とした秩序もこうしたものであった。その後、中華思想に基づく「文化的優越性を持った世界の中心」という意味を帯び、秦始皇帝のこの地域の諸民族の統一に発する中国歴代王朝の政治的・軍事的な境界を設定する中で、徐々に形成されていった漢民族意識のアイデンティティを境界付ける自称として拡張されていった。

中原」とは、黄河文明の発祥地である黄河中下流域に広がる平原のことであり、しばしば「中国」と同義とされるが、秦、漢王朝から支配される領土は「中国」とみられる。「秦始皇は中国を防衛のため長城に建てた」文書記載されている[5]。前漢昭帝時代に書かれたとされる『塩鉄論』では、景帝時代までの領土及び地域を「中国」と称し、漢書溝恤志卷29では「中國川原以百數」(いにしえより中国には何百もの山と原があり)[6]、武帝が新たに征服した領土を含む領域を「中国」[7]、武帝が新規に征服した領域は「中国」と対置する領域として「辺境」、武帝が支配した領域以外の地域は「外国」、周王朝時代の領域は「諸夏」[8]、と各々使い分けて記載しており、この時代には、既に「中国」の領域が「中原」よりも広い地域に拡大し、自民族の伝統的領域と認識されている一方、王朝の支配領域全てが「中国」と認識されているわけではない様子を伺い知ることができる。

唐王朝に入ると「中国」の領域は更に拡大し、現在中国本土と呼ばれる領域が「中国」と認識されるようになっていた(例えば「唐興,蠻夷更盛衰,嘗與中國亢衡者有四:突厥吐蕃回鶻雲南是也」(新唐書列伝140巻「突厥上」という用例が唐代に出現する)。従って、韓愈論仏骨表では「仏というものは、後漢代に中国に伝わったものであり、その前中国にはまだ仏は居なかったのです」と話ことである。

同時に「中国」は地理的な領域名だけではなく、「中国」が現時点で支配している領土を意味するようにもなっていた(新唐書列伝145東夷/高麗に「遼東故中國郡縣」(遼東は今は高句麗の領土であるが嘗ては中国の郡県であった)という文章がある)。同様の用例は明史列伝209「外国二/安南」の記載にもあり(「安南本中國地」(安南(ベトナム社会主義共和国の中北部)は、もとは中国の地であった)、「中国」の領域認識は支配領域の拡大縮小と連動する概念であった。

なお、通例では清朝末期以前は、「中国」は通史的意味合いを持たないとされているが、通史的な用例がまったくないわけではない。例えば「宋史列傳194儒林五/胡安國」では「自古中國強盛如漢武帝、唐太宗」(いにしえより中国は漢武帝唐太宗の如く強く盛んであった)という記載がある。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:38 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:FIRTREE