万葉集
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元暦校本万葉集

『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇貴族から下級官人防人などさまざまな身分人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。

日本文学における第一級の史料であることは勿論だが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。


目次

1 万葉集の成立

1.1 書名の由来

1.2 編者と成立年代


2 諸本と刊本

3 万葉集の構成と内容

3.1 時期区分

3.2 歌風と万葉仮名


4 万葉集の影響

4.1 『万葉集』と方言

4.2 日本古来の物語の原型説


5 万葉集の諸点

5.1 巻頭の歌

5.2 捕鯨

5.3 外国語との関係


6 研究史

7 万葉集に由来する名前

8 脚注

9 関連項目

10 文献情報

11 外部リンク


万葉集の成立
書名の由来

『万葉集』の名前の意味についてはいくつかの説が提唱されている。ひとつは「万の言の葉」を集めたとする説で、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するものである。これは古来仙覚賀茂真淵らに支持されてきた。仙覚の『万葉集註釈』では、『古今和歌集』の「仮名序」に、やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける

とあるのを引いている。ただし、『古今集』の成立は『万葉集』よりも時代が下るので、この語釈が『万葉集』成立後にできあがったものという可能性も否定できず、そのまま『万葉集』の由来としてあてはめることには疑問もある。

そのほかにも、「末永く伝えられるべき歌集」(契沖や鹿持雅澄)とする説、葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする説などがある。研究者の間で主流になっているのは、『古事記』の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味にとり、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」ととる考え方である。
編者と成立年代

『万葉集』の成立に関しては詳しくわかっておらず、勅撰説、橘諸兄編纂説、大伴家持編纂説など古来種々の説があるが、現在では家持編纂説が最有力である。ただ、『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。

『万葉集』二十巻としてまとめられた年代や巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、内部徴証から、おおむね以下の順に増補されたと推定されている。
巻1の前半部分(1 -53番)…原・万葉集…各天皇を「天皇」と表記。万葉集の原型ともいうべき存在。持統天皇柿本人麻呂が関与したことが推測されている。

巻1の後半部分+巻2増補…2巻本万葉集持統天皇を「太上天皇」、文武天皇を「大行天皇」と表記。元明天皇の在位期を現在としている。元明天皇太安万侶が関与したことが推測されている。

巻3 - 巻15+巻16の一部増補…15巻本万葉集契沖が万葉集は巻1 - 16で一度完成し、その後巻17 - 20が増補されたという万葉集二度撰説を唱えて以来、この問題に関しては数多くの議論がなされてきたが、巻15までしか目録が存在しない古写本(「元暦校本」「尼崎本」等)の存在や先行資料の引用の仕方、部立による分類の有無など、万葉集が巻16を境に分かれるという考え方を裏付ける史料も多い。元正天皇、市原王、大伴家持大伴坂上郎女らが関与したことが推測されている。

残巻増補…20巻本万葉集延暦2年(783年)頃に大伴家持の手により完成したとされている。

ただし、この『万葉集』は延暦2年以降に、すぐに公に認知されるものとはならなかった。延暦4年(785年)、家持の死後すぐに大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり家持も連座したためである。その意味では、『万葉集』という歌集の編纂事業は恩赦により家持の罪が許された延暦25年(806年)以降にようやく完成したのではないか、と推測されている。

「万葉集」は平安中期より前の文献には登場しない。この理由については「延暦4年の事件で家持の家財が没収された。そのなかに家持の歌集があり、それを契機に本が世に出、やがて写本が書かれて有名になって、平安中期のころから『万葉集』が史料にみえるようになった」とする説[1] などがある。
諸本と刊本

この節の加筆が望まれています。

万葉集の諸本は大きく分けて、古点本、次点本、新点本に分類できる。この区分は鎌倉の学僧仙覚によるもので、点とは万葉集の漢字本文に附された訓のことをさす。その訓が附された時代によって、古・次・新に分類したのである。古点とは、天暦5年(951年)に梨壺の五人の附訓で、万葉歌の九割にあたる四千以上の歌が訓みをつけられた。確実な古点本は現存していないが、武田祐吉小川靖彦によって桂本が古点の一部を存しているという見解がしめされている。ほかに久松潜一は藍紙本も古点を伝えるとの見解をしめしている。古点とつたえる資料としては、古今和歌六帖など、平安時代中期の歌集に引用された万葉歌がそれに当たるとの見方も山田孝雄や上田英夫らによって提示されたことがあるが、現在ではあまり有力視されていない。

ともあれ、古点とは梨壺の五人による一回的な作業の結果であるが、次点本は古点以降新点以前の広い時代の成果をさし、藤原道長、大江佐国、大江匡房、惟宗孝言、源国実、源師頼藤原基俊、藤原敦隆、藤原仲実藤原清輔藤原長忠顕昭など、複数の人物が加点者として比定されている。この次点本に属す現存諸本としては、嘉暦伝承本、元暦校本、金澤本、類聚古集、廣瀬本などが現存しているが、いずれも零本であり、完本は伝わらない。このうち、廣瀬本は藤原定家校訂の冷泉本定家系万葉集とみとめられる。1993年(平成5年)に関西大学教授の木下正俊・神堀忍に発見され、所蔵者である広瀬捨三(元同大学教授)の名を採って廣瀬本と称される。ただし、廣瀬本の奥書には甲府町年寄春日昌預1751年 - 1836年、山本金右衛門)や本居宣長門弟の国学者萩原元克1749年 - 1805年)といった甲斐国の国学者たちによる校訂の痕跡を示す文言があり、賀茂真淵の『万葉考』に依拠した本文や訓の訂正も行なわれている。

新点本は仙覚が校訂した諸本をさし、おおきく寛元本系統と文永本系統にわかれる。寛元本系統の諸本は伝わらないが、上田英夫の考証によって神宮文庫本がもっとも寛元本の様態を留める本であることが確かめられている。また橋本進吉田中大士によって、紀州本の巻10までが寛元本に近い本ではないかと推測がなされている。西本願寺本巻1の奥書によれば、寛元本は源実朝本(鎌倉右大臣本)など数種の古写本を校合し、さらに仙覚自身の案も加えて校訂した本とみられる。

文永本に関しては、最古の完本である西本願寺本をはじめ学習院大学本、陽明文庫本など揃いの諸本が多く、とくに西本願寺本がもっとも多くの歌数をとどめていることから、現在万葉集のテキストを編む場合、必ずと言っていいほど底本として利用されている。
万葉集の構成と内容

全二十巻であるが、首尾一貫した編集ではなく、何巻かずつ編集されてあったものを寄せ集めて一つの歌集にしたと考えられている。

歌の数は四千五百余首から成るが、写本の異伝の本に基づく数え方が、歌数も種々様々の説がある。

各巻は、年代順や部類別、国別などに配列されている。また、各巻の歌は、何らかの部類に分けられている。

内容上から雑歌(ぞうか)・相聞歌挽歌の三大部類になっている。

雑歌(ぞうか) - 「くさぐさのうた」の意で、相聞歌・挽歌以外の歌が収められている。公の性質を持った宮廷関係の歌、旅で詠んだ歌、自然や四季をめでた歌などである。

相聞歌(そうもんか) - 「相聞」は、消息を通じて問い交わすことで、主として男女の恋を詠みあう歌である。

挽歌(ばんか) - 棺を曳く時の歌。死者を悼み、哀傷する歌である。

表現様式からは、

寄物陳思(きぶつちんし) - 恋の感情を自然のものに例えて表現

正述心緒(せいじゅつしんしょ) - 感情を直接的に表現

詠物歌(えいぶつか) - 季節の風物を詠む

譬喩歌(ひゆか) - 自分の思いをものに託して表現

などに分けられる。

巻十四だけが東歌(あずまうた)の名をもっている。この卷には、上総下総常陸信濃四国の雑歌、遠江駿河伊豆相模武蔵上総下総常陸信濃上野下野陸奥十二国の相聞往来歌、遠江駿河相模上野陸奥五国の譬喩歌・国の分からないものの雑歌、相聞往来歌・防人歌・譬喩歌・挽歌・戯咲歌などが収められている。


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