ヴァンダル戦争
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ヴァンダル戦争
ユスティニアヌス1世の再征服戦争中

  526年時点のヴァンダル王国の領域。

533年? 534年
場所現代のチュニジアアルジェリア東部
結果

東ローマ帝国の勝利。
ヴァンダル王国の滅亡。
領土の
変化アフリカ属州の獲得

衝突した勢力
東ローマ帝国ヴァンダル王国
指揮官
ベリサリウスゲリメル
戦力
歩兵10,000
騎兵5,000

約50,000人
(動員時150,000人)[1]

ヴァンダル戦争(ヴァンダルせんそう、533年 - 534年)は、北アフリカ(現在のチュニジアアルジェリア東部)において東ローマ帝国ヴァンダル王国との間で行われた戦争である。この戦争はユスティニアヌス1世による西方再征服戦争の最初の戦いであり、東ローマ帝国軍の速やかなる勝利に終わった。ヴァンダル王国は滅亡し、北アフリカにおけるローマ帝国の支配が再建された。


目次

1 背景

2 両軍の戦争準備

3 アド・デキムムの戦い

4 トリカマルムの戦いとゲリメルの降伏

5 戦後

6 脚注

6.1 注釈

6.2 出典


7 参考文献

8 関連項目


背景詳細は「ヴァンダル王国」および「ヴァンダル族」を参照ヴァンダル族によるローマ劫掠。
ハインリヒ・ロイテマン (en) 画。ヴァンダル戦争関係地図と経過
@トリポリタニアでの反乱。キレナイカより侵攻した東ローマ軍が属州を占領。(533年春)
Aサルデーニャでのゴダスの反乱。ヴァンダル王ゲリメルは鎮圧のためのツァツォン率いるヴァンダル艦隊を派遣。(533年春)
Bベリサリウス率いる東ローマ遠征艦隊がコンスタンティノープルを出帆。ギリシャ、シチリアを経てアフリカへと向かう。(533年6月-9月)
C東ローマ軍がヴァダ岬に上陸し、艦隊と並行して海岸線に沿って、ゲリメル王の追跡を受けつつ[2]、カルタゴへ向けて北上。両軍はアド・デキムムで会戦。(9月14日)
Dゲリメルはブラ・レジアへと敗走し、ツァツォンの軍を呼び戻す。ヴァンダル軍はカルタゴへ前進。ベリサリウスは出撃してトリカマルムでヴァンダル軍と会戦。(533年11月?12月)
E東ゴート軍がリリュバエウムを占拠。(533年秋)
Fゲリメルはパップア山地に逃れ、東ローマ軍に包囲される。(533/534年冬);ベリサリウスはヒッポーネでヴァンダル王室の財宝を接収[3]。;ゲリメルが降伏。(534年3月)

5世紀の西ローマ帝国騒乱期にヴァンダル族はライン川を渡ってガリアに入り、さらに同盟部族のアラン族とともにイベリア半島にまで侵入していた[4]。429年、ヴァンダル王ガイセリックは皇帝と反目していたアフリカ総督(vicarius)ボニファティウス (en) の招きに応じて、彼の民とともに海峡を越えて北アフリカに進出した[5]。現地のローマ軍はボニファティウスの反乱と432年の彼の死によって弱体化しており、ヴァンダル族は容易くローマ領を占拠できた。439年にカルタゴが占領され、続く20年間のうちにガイセリックはアフリカ管区 (en) だけでなく、強力な海軍を用いてシチリアサルデーニャコルシカそしてバレアレス諸島をも手中に収めた[6]

続く数十年間、熟練したヴァンダル海軍は地中海全域を跳梁し、455年にローマ劫掠 (en) を行い[7]、そして468年にはバシリスクス率いる東ローマ艦隊を撃滅している[8]

この敗北とヴァンダル海賊の跋扈は東ローマ帝国を酷く痛めつけ、さらにヴァンダル族の宗教政策が関係を悪化させた。ヴァンダル族は熱烈なアリウス派であり、カトリック教徒の迫害を行った[9]。だが、ローマ人にはヴァンダル王国に対して戦争を仕掛ける力がなかったため(しばしば緊張が発生したが)「永続的な平和」と呼ばれる平和的な関係を保つことになった[10]

この状況は西方領土回復を望むユスティニアヌス1世が即位することにより変わることになる。 当初、ユスティニアヌス帝はペルシアとのイベリア戦争 (en) に忙殺されており、一方、ヴァンダル王国でもカトリックに寛容で親ローマ派のヒルデリック (en) (母は西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の皇女(長女)エウドキア(439年 - 467年/474年?))が523年に即位しており、東ローマ帝国との友好的な関係を築いていた[11]。だが、彼の政策はヴァンダル族の中から反発を受けており、ムーア人との戦いに敗れたことで、530年にクーデターが起き彼の従兄弟のゲリメルによって廃位されてしまう[12]。ユスティニアヌス帝はヒルデリックの復位を要求したが、ゲリメルはこれを拒絶した[13]

ユスティニアヌス帝はゲリメルに対する懲罰遠征を決め[14]、532年にペルシャとの和平を成立させると遠征軍の編成に着手した[15]
両軍の戦争準備ベリサリウス
ラヴェンナサン・ヴィターレ聖堂

ユスティニアヌス帝は最も信頼し、かつ有能な将軍であるベリサリウスを遠征軍の司令官に任命し、参謀として宦官のソロモン (en) を付けた[16]。ベリサリウスの顧問にはカイサリアパレスチナの古代都市)出身のプロコピオスがおり、後に彼がこの戦争の記録を二巻の本にまとめることになる。プロコピオスの記述によれば、人々の間には468年の破局の記憶が残っており、東方道管区長官 (en) のカッパドキアのヨハネス (en) を含む大臣たちの多くが遠征に反対し、ユスティニアヌス帝を説得しようとしたという[17]。一方で、ヴァンダル族を異端と考える聖職者たちはこの遠征を熱心に支持した[18]

ヴァンダル族戦士の勇猛さを恐れる世評にも関わらず、遠征軍は驚くほど小規模だった。5万人の兵力を有し、動員時には16万人にもなるヴァンダル軍に対して[1]、東ローマ帝国の遠征軍はローマ人歩兵10,000と同盟部族(Foederati)の騎兵5,000からなる15,000に過ぎず、これにはベリサリウスの私兵であるブケライオス軍(bucellarii)のローマ人および同盟部族の騎兵3,000そしてフン族400人とヘルール族600人の騎馬弓兵が含まれている。


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