ワシントンD.C.
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インディアンによる内務省BIA本部ビル占拠

1972年、全米最大のインディアン権利団体「アメリカインディアン運動 (AIM)」は、ワシントンD.C.にある「アメリカインディアン国民会議」の建物に対議院活動事務所の設置を企画し、ニューメキシコに本部を置く「全米インディアン若者会議 (National Indian Youth Council)」と合同で「破られた条約の旅 (Trail of Broken Treaties)」を決行した。

この「破られた条約の旅」は、10月末の大統領選の日に合わせてロサンゼルスシアトルサンフランシスコの三地点から自動車キャラバン隊が同時出発し、途中各地のインディアン保留地で文化交流を行うとともに参加者を募り、ワシントンD.C.まで行進するという平和的な非暴力要求デモだった。ミネソタ州セントポールで合流した一隊は、インディアンと連邦政府間の条約事項の尊重と権利の保護を20項目の条文にまとめ、10月3日、ワシントンD.C.に到着し、内務省BIA本部ビルへ向かった。彼らは内務省BIAに以下の20項目の要求を突きつけた。
1871年までにアメリカ連邦政府とインディアン部族が結んだ条約の回復。

インディアンの独立国家のための新しい条約権限の設立。

アメリカ連邦議会での、インディアン代表者の演説権。

インディアンとの条約に対する連邦側の責任と違反のチェック。

批准されていない条約を上院議案に提出する。

すべてのインディアンと条約関係を結ぶ。

アメリカ連邦政府が条約権限を違反したインディアン国家に対する救済。

条約をきちんと解釈し、インディアンの権利を認定する。

インディアンの結びつきを再建するための、共同の議会委員会の設置。

アメリカ合衆国内の、インディアン部族から強奪した1億1000万エーカーの土地の返還。

解消終了された権利の回復。

州政府におけるインディアン国家の管轄権所有を廃止する。

インディアン犯罪の連邦保護。

BIA(インディアン管理局)の廃止。

アメリカ連邦政府にインディアン関係の新しいオフィスを設立する。

アメリカ合衆国とインディアン国家間の破られた憲法条約を修復するためのオフィスの新設。

州政府が制限している、インディアン国家の交易品の商業規制、税負担の免除。

インディアンの信教の自由と、文化的独立の保護。

全国のインディアンに地方選択権による投票所を設立し、インディアン組織に対する政府規制を解除する。

すべてのインディアンの人々のために、健康保険、住宅、仕事、経済発展、教育を再生する。

しかし、内務省はこの「破られた条約の旅」への一切の援助を禁ずる通達を各官庁・団体に出し、これを無視する構えを採った。インディアンデモ隊はやむなく BIA本部へ押し掛け、ここにバリケードを張ってビル占拠を行った。彼らは20項目の要求を BIA に突きつけ、籠城・交渉は一か月続いた。インディアンたちは「我々はここを死守する。死ぬにはもってこいの日だ」と宣言、死を覚悟して顔を塗装して「死の歌(インディアンたちの辞世の歌)」を歌い、ビルを包囲した警官隊との睨み合いは全米に連日中継報道された。

アメリカ合衆国は大統領選を控え、強硬策を回避した。11月7日、リチャード・ニクソン大統領が再選され、内務省は20項目について検討することを条件に翌日の占拠解除を求める手打ちを行った。インディアンたちは帰路の経費6万4千ドルを要求、ニクソン大統領は選挙予算からこれを支出した。

AIM のデニス・バンクス、ラッセル・ミーンズらは BIAビル占拠中に、BIA とその傀儡である各地の保留地の部族政府との癒着、不正経理、横領を示す重要書類をごっそり持ち帰り、BIA を激怒させた。以後、内務省は反AIMキャンペーンを行いこれを攻撃した。
インディアンによる「ロンゲスト・ウォーク」

1977年、カーター政権で、アメリカ上下院はインディアン絶滅方針を強化し、「部族に対する連邦公認の打ち切り」、「保留地の縮小・解消」、「自治権の剥奪」などの重要法案が次々に議会小委員会に提出された。これに危機感を募らせた AIM のデニス・バンクスは、この絶滅政策に対抗する運動として、アルカトラズ島からワシントンD.C.までの命がけの徒歩横断行進を提唱、全米のインディアン・非インディアンに呼びかけ、大きな賛同と志願者を得た。これは「インディアン移住法」下での、涙の道などの19世紀の全米のインディアン部族に対する保留地強制移住を再現させる試みでもあった。

1978年2月11日、アルカトラズ島占拠事件の記念の地であるアルカトラズ島を起点に「第1回ロンゲスト・ウォーク(最長の徒歩)」は決行され、極寒と酷暑の中を徒歩で大陸横断すべく、インディアンとその賛同者の白人、黒人、アジア人、また豪州のアボリジニなど各国の先住民たちが一路ワシントンD.C.を目指した。インディアンたちは伝統の儀式でこの行進を鼓舞し、朝夕に欠かさずパイプによる精霊への祈りを捧げた。

1978年7月15日、5カ月かけた大陸徒歩横断ののち、4000人に膨れ上がった行進隊はついにワシントンD.C.に到着。このニュースは全米に報じられた。そしてこの非暴力抗議運動は、議会の反インディアン法案を黙らせたのである。以来「ロンゲスト・ウォーク」は毎年続けられている。
治安ワシントンD.C.における殺人発生件数の推移(1986-2005年)

1990年代初頭に凶悪犯罪の波が訪れた時、ワシントンD.C.はアメリカの「殺人首都」 (murder capital) として知られ、殺人事件の発生数において、ルイジアナ州ニューオーリンズとしばしば肩を並べていた[81]。謀殺(計画的殺人)の発生件数は1991年に482件だったが、1990年代を通じて犯罪の激しさは大幅に緩和した。2006年までに、市内における謀殺の件数は169件にまで減少した[82]。窃盗や強盗など各種の財産犯も、同様の割合で減少した[83]。 また、2012年は殺人件数が88件と減少した。しかし、人口比で見ると13.9件(全米平均:4.7件)と全米平均より高く、州別で見るとワースト2である。[84] 多くの大都市と同様、犯罪の発生率が高いのは違法薬物やギャングと関係のある地域である。より富裕な地域のワシントンD.C.北西地区(高級住宅街のジョージタウンなど)では犯罪発生率は低いが、東に行くに従って増加する。コロンビア・ハイツやローガン・サークルのように、一時は凶悪犯罪がはびこったものの、ジェントリフィケーション(高級住宅化)の影響を受けて安全と活気を取り戻しつつある地域も多い。その結果、ワシントンD.C.における犯罪は、さらに東方、メリーランド州プリンスジョージ郡との境界を越えるところまで追い払われつつある[85]ワシントンD.C.における殺人事件発生地点の分布(2004-2008年)。NE(北東)とSE(南東)に圧倒的に多いことが分かる。

特に危険なのは市南東部のアナコスティア地区 (Anacostia) である。ワシントンD.C.で起こる殺人の約3分の1はこのアナコスティア地区内で発生している[86]


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