レオシュ・ヤナーチェク
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レオシュ・ヤナーチェク
Leo? Jana?ek
レオシュ・ヤナーチェク
基本情報
生誕 (1854-07-03) 1854年7月3日
出身地 オーストリア帝国 モラヴィア
死没 (1928-08-12) 1928年8月12日(74歳没)
チェコスロバキア オストラヴァ
ジャンルオペラ
管弦楽曲
室内楽曲
ピアノ曲
合唱曲
職業作曲家

ポータル クラシック音楽

レオシュ・ヤナーチェク(チェコ語: Leo? Jana?ek [?l?o? ?jana?t???k]  発音[ヘルプ/ファイル], 1854年7月3日 - 1928年8月12日)は、モラヴィア(現在のチェコ東部)出身の作曲家

モラヴィア地方の民族音楽研究から生み出された、発話旋律または旋律曲線と呼ばれる旋律を着想の材料とし、オペラをはじめ管弦楽曲室内楽曲ピアノ曲合唱曲に多くの作品を残した。そのオペラ作品は死後、1950年代にオーストラリアの指揮者チャールズ・マッケラスの尽力により中部ヨーロッパの外に出て、1970年代以降広く世に知られるようになった。
目次

1 生涯

1.1 少年時代(1854年 - 1868年)

1.2 王立師範学校時代(1869年 - 1874年)

1.3 プラハに滞在(1874年 - 1875年)

1.4 ブルノへ戻る(1875年 - 1879年)

1.5 ライプツィヒ・ウィーンに滞在(1879年10月 - 1880年)

1.6 再びブルノへ戻る(1880年 - 1916年)

1.7 プラハでの『イェヌーファ』上演(1916年)

1.8 カミラ・シュテスロヴァーとの出会い(1917年 - 1928年)

1.9 死(1928年)


2 モラヴィア音楽の特徴とヤナーチェク

3 作曲法

4 ヤナーチェクの受容史

5 作品

6 脚注

6.1 注釈

6.2 出典


7 参考文献

8 関連項目

9 外部リンク

生涯
少年時代(1854年 - 1868年) 故郷フクヴァルディに建つ代表作『利口な女狐の物語』をモチーフとしたモニュメント ブルノ

1854年7月3日、モラヴィア北部のフクヴァルディ(ドイツ語版)[† 1] という村で、父イルジーと母アマリアの10番目の子供(14人兄弟)として誕生した[1][2]。祖父と父はともに教師で、音楽家でもあった[2][3][† 2]

11歳のとき、ヤナーチェクの音楽的素養を見抜いていた父イルジー[4]の意向によってモラヴィアの首都ブルノにあるアウグスティノ会修道院[† 3]付属の学校に入学し、同時に修道院の少年聖歌隊員となった。聖歌隊の指揮者であったパヴェル・クシーシュコフスキーはヤナーチェクの父イルジーのもとで音楽の教育を受けた人物で、ベドルジハ・スメタナと同時期に活動したチェコ音楽における重要人物とされる[5]。ヤナーチェクは約4年[6]または8年[2]の間、クシーシュコフスキーの指導を受けた。1866年に父のイルジーが死去し、伯父のヤンの後見を受けることになった[7]。なお、ヤナーチェクは後に生まれ故郷のフクヴァルディに足繁く通うようになり、1921年には家を購入している[8]
王立師範学校時代(1869年 - 1874年)

1869年秋、ブルノ市のドイツ人中学校を卒業した[9]ヤナーチェクは王立師範学校の教員養成科に入学し[9]、音楽のほか歴史、地理、心理学で優れた成績を収めた。イーアン・ホースブルグは、ヤナーチェクのオペラ作品に登場人物に対する深い理解がうかがえることと心理学でよい成績を収めたこととの関連性を指摘している[7]1872年、3年間の教科課程を修了したヤナーチェクは無給での教育実習を2年間課せられた[9][10]。同じく1872年にアウグスティノ会修道院の聖歌隊副指揮者に就任[10][11]。留守がちであったクシーシュコフスキー[† 4]にかわって活動を取り仕切った。指導を受けた生徒の一人によると、ヤナーチェクは「気性が激しく、怒りっぽく、発作的に怒りを爆発させていた」という[10]


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