リール包囲戦_(1792年)
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リール包囲戦

包囲戦中のリール大広場、ルイ・ジョゼフ・ヴァットー(英語版)作、1794年。
戦争:フランス革命戦争
年月日:1792年9月25日 - 10月8日
場所:フランス第一共和政リール
結果:フランスの勝利
交戦勢力
フランス第一共和政 ハプスブルク帝国
指導者・指揮官
ジャン=バティスト・アンドレ・ルオー・ド・ラ・ボンネリー(英語版) アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェン
戦力
10,000-25,00013,800
攻城砲52門
損害
100-200戦死43
負傷161
攻城砲20門
フランス革命戦争


ヴァルミー

マインツ (1792年)

ジュマップ

ネールヴィンデン

マインツ (1793年)

オンドスコート

ワッチニー

フルリュス

マルセイユ

リヨン

ヴァンデ

トゥーロン

イタリア戦役

モンテノッテ

ロディ

カスティリオーネ

アルコレ

リヴォリ

サン・ビセンテ岬

エジプト遠征

ピラミッド

ナイル

アッコ

第二次イタリア戦役

シュトックアッハ

第二次チューリヒ

マレンゴ

ホッホシュタット

ホーエンリンデン

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リール包囲戦(リールほういせん、英語: Siege of Lille)はフランス革命戦争中の1792年9月25日から10月8日にかけて行われた、アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェン率いるハプスブルク帝国(オーストリア)軍によるリールの包囲。リールは激しい砲撃に晒されたが、ジャン=バティスト・アンドレ・ルオー・ド・ラ・ボンネリー(英語版)率いる守備軍は砲撃に耐えた。オーストリア軍がリールを完全包囲することができなかったため、フランスは常に増援を派遣することができ、ヴァルミーの戦いでフランス軍がプロイセン軍に勝利したとの報せが届くと、テシェン公は包囲軍を撤収した。次の戦闘は11月のジュマップの戦いだった。包囲戦の記念として、1845年に女神の柱(英語版)が建てられた。


目次

1 背景

1.1 リールの守備

1.2 革命戦争の情勢


2 包囲

3 両軍の勢力

4 結果

5 脚注

6 参考文献


背景
リールの守備

フランス王国が1667年のリール包囲戦でリールを占領すると、フランスの技術将校セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンはリールの守備を強化するよう命じられた。五角形となっているリールの星形要塞は1668年から1672年までの間、150万フローリンをかけて築かれ、その成果はヴォーバンに「城塞の女王」と言わしめた。城塞の周辺はリール市と隣接する部分を除いて沼地となっており、浸水した2つの溝と遮蔽のある2つの道で守られた。1670年、新しい防御工事のために古い壁の一部が取り壊された。そして、防御工事が完成すると、リールは合計で堡塁16か所と角堡(英語版)4か所に守られた。ヴォーバンは巨大なリール要塞の守備には城塞の守備兵1千を含む合計1万2千人を要すると概算した。1708年のリール包囲戦ではルイ・フランソワ・ド・ブーフレール率いるリール駐留軍が弾薬切れによりプリンツ・オイゲンマールバラ公爵に降伏した[1]
革命戦争の情勢

8月19日、ラファイエット侯爵ジルベール・デュ・モティエは北方軍(英語版)の指揮から離れて、士官22人とともに対仏大同盟軍の領地に入った。当時、急進化していたフランス立法議会はラファイエットにパリまで出頭して査問に応じるよう命じており、19日には反逆罪で起訴された。プロイセンとオーストリアはフランスがラファイエットをギロチンにかけようとしたことを知らず、1797年までラファイエットを収監した[2]。ラファイエットの後任はより機敏なシャルル・フランソワ・デュムーリエ(英語版)だった[3]。彼はオーストリア領ネーデルラント侵攻を夢見ていたが、事態の発展で延期を余儀なくされた。8月24日、フランソワ・ジョゼフ・ウェスターマン(英語版)が参謀本部にロンウィが弱い抵抗ののち対仏大同盟に降伏したとの知らせを届けた。 デュムーリエはリールを指揮していたアンヌ・フランソワ・オーギュスタン・ド・ラ・ブルドンネ(英語版)に北方軍の北翼の指揮を任せると、ウェスターマンとエー=ド=カン(英語版)(助手)のジャック・マクドナルとともに南下した[4]

対仏大同盟軍は中央部のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール・ヴィルヘルム・フェルディナント率いるプロイセン軍4万2千のほか、右翼にフランソワ・セバスチャン・シャルル・ジョゼフ・ド・クロワ(英語版)率いるオーストリア軍1万5千が、左翼にフリードリヒ・ヴィルヘルム・ツー・ホーエンローエ・キルヒベルク(英語版)率いるオーストリア軍1万4千が配置されていた。同盟軍はロンウィを砲撃して降伏させた後、9月2日のヴェルダンの戦いで素早く勝利を収めた。デュムーリエはようやくブラウンシュヴァイク公がパリへ進軍していることに気づき、プロイセン軍を追ってグランプレ(英語版)に進んだ。また同時にピエール・リュエル・ド・ベルノンヴィル(英語版)に命じて北方軍から兵士1万を連れて合流するよう命じ、ブレーズ・デュヴァル(英語版)に3,050人を連れてくるよう命じた[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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