ムンダの戦い
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この記事の参考文献は、一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼っています。信頼できる第三者情報源とされる出典の追加が求められています。(2017年9月)

この項目では、ローマ内戦の戦闘について説明しています。太平洋戦争でのソロモン諸島における戦闘については「ニュージョージア島の戦い」をご覧ください。

ムンダの戦い


戦争:ローマ内戦
年月日:紀元前45年3月17日
場所:ムンダ(現:オスナ近郊)
結果:カエサル派の勝利
交戦勢力
カエサル派元老院派
(ポンペイウス派)
指導者・指揮官
G・J・カエサルティトゥス・ラビエヌス
小ポンペイウス
セクストゥス・ポンペイウス
戦力
8個軍団
兵40,000
騎兵8,00013個軍団
兵70,000
騎兵6,000
損害
戦死1,000
負傷500戦死30,000
ローマ内戦(BC49-BC45)


マッシリア

イレルダ

バグラダス川

デュッラキウム

ファルサルス

ナイル

ゼラ

タプスス

ムンダ

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ムンダの戦い(ムンダのたたかい、イタリア語: Battaglia di Munda)は、紀元前45年3月17日ヒスパニアのムンダ(現:オスナ)で行われたガイウス・ユリウス・カエサル派と元老院派(ポンペイウス派)との戦いである。


目次

1 概要

1.1 開戦までの経緯

1.2 カエサル、ヒスパニア上陸

1.3 両軍戦力

1.4 ムンダの戦い

1.5 会戦後


2 参考資料

3 脚注・出典


概要
開戦までの経緯

紀元前46年春より、ローマ属州ヒスパニア・ウルステリオルに於いてイレルダの戦いでカエサル軍に敗れた元老院派のベテラン兵士を中心として形成された軍勢が、小ポンペイウスグナエウス・ポンペイウスの息子)を担いで蜂起することを宣言し、カエサルが任命したヒスパニアの各属州総督を追放して元老院派がヒスパニアを実効支配した。

また、タプススの戦いでカエサル軍に敗北した元老院派の残党もヒスパニアの元老院派の軍に加わると共に、同じく北アフリカから逃れた小ポンペイウスやセクストゥス・ポンペイウス、プブリウス・アッティウス・ウァルス及びガリア戦争でカエサルの腹心であったティトゥス・ラビエヌスも合流した。元老院派は3つのローマ軍団(2つは従来からあるベテラン中心の軍、1つはヒスパニアに住むローマ市民から構成された軍)に加えて、ローマ市民権を持たないヒスパニア人やガリア人等から構成された軍勢を組織して、属州都であったコルドバを始めとしてローマ人居留地も含むヒスパニアの殆どへ勢力を伸ばした[1]

ヒスパニアをカエサルより任されたクィントゥス・ファビウス・マクシムスクィントゥス・ペディウスは、元老院派が勢力を増すことに無力であり、カエサルに支援を要請した。
カエサル、ヒスパニア上陸

紀元前46年11月、カエサルは元老院派を討伐する為にローマを発って、カエサルが信頼を置く第10軍団エクェストリス第5軍団アラウダエ、新しく組織された第3軍団ガッリカ第6軍団フェッラタ等のローマ軍を率いて(軍団兵の中にはヒスパニアで採用した現地人も多かったとされる)、紀元前46年12月にヒスパニアへ到着した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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