ミノア文明
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クレタ島ミノア文明地図

ミノア文明(ミノアぶんめい)は、エーゲ文明のうち、クレタ島で栄えた青銅器文明のことである。伝説上のミノス王にちなみ、ミノス文明とも呼ばれるが、クレタ文明と呼ばれることもある。
目次

1 序

2 ミノア文明以前

2.1 前宮殿時代

2.1.1 土器様式

2.1.2 特徴



3 古宮殿時代

3.1 土器様式

3.2 特徴


4 新宮殿時代

4.1 土器

4.2 特徴

4.3 宮殿


5 発掘

6 脚注

6.1 注釈

6.2 参照


7 参考文献

8 関連項目

9 外部リンク

クノッソス宮殿

紀元前2000年頃の中期ミノア期に、地中海交易によって発展し、クノッソス、マリア(英語版)、ファイストスなど、島内各地に地域ごとの物資の貯蔵・再分配を行う宮殿が建てられた。宮殿以外にもコモスやパレカストロのような港湾都市が繁栄。また、貿易を通じてエジプトフェニキアの芸術も流入し、高度な工芸品を生み出した。紀元前18世紀ごろには、線文字Aを使用している。

紀元前1600年頃の後期ミノア期には、各都市国家の中央集権化、階層化が進み、クノッソス、ファイストスが島中央部を、マリアが島東部をそれぞれ支配するに至ったが木材の大量伐採による自然環境の破壊が文明そのものの衰退を招き[1]紀元前1400年ごろにミュケナイアカイア人がクレタ島に侵入、略奪されミノア文明は崩壊した。

クレタの宮殿建築は非対称性・有機的・機能的な構成で、中庭は外部から直接に進入することができ、かつ建物の各部分への動線の起点となっている。建物は常に外部に対して開放されており、当時のクレタが非常に平和であったことが推察される。

初期の宮殿建築では、宮殿に接して市民の公共空間が設けられていたが、後期ミノア時代に社会体制が中央集権化・階層化するとともに次第に公共空間は廃れ、他の建築物が建てられた。祭政を一体として行っていたために、独立した祭儀場を持たない。

ミノア文明は、紀元前15世紀半ばに突然崩壊した。その原因を、イギリスの考古学者アーサー・エバンスらは、サントリーニ島の巨大爆発(ミノア噴火)に巻き込まれたとする説を唱えた[2]。しかし、アクロティリ遺跡の調査によってミノア文明が滅んだのは、ミノア噴火より50年後ほど経た後であり、サントリーニ島の噴火が直接の原因ではないことがほぼ確定している[3]
ミノア文明以前

ミノア文化における編年年代土器による編年文化推移による区分
前3650年-3000年EMI前宮殿時代
前2900年-2300年EMII
前2300年-2160年EMIII
前2160年-1900年MMIA
前1900年-1800年MMIB古宮殿時代
(第1宮殿時代)
前1800年-1700年MMII
前1700年-1640年MMIIIA新宮殿時代
(第2宮殿時代)
前1640年-1600年MMIIIB
前1600年-1480年LMIA
前1480年-1425年LMIB
前1425年-1390年LMII諸宮殿崩壊後の時代
(最終宮殿時代)
前1390年-1370年LMIIIA1
前1370年-1340年LMIIIA2
前1340年-1190年LMIIIB
前1190年-1170年LMIIIC
前1100年亜ミノア文化

クレタ島ではギリシャ本土やキクラデス諸島と並行しながら独自の進化を遂げていた。そのため、本土や島嶼部で発掘されるソースボートはクレタ島では稀にしか発見されず、その逆にクレタ島で発掘されるヴァシリキ様式(de)ティーポットは本土や島嶼部で発見されることは稀である[4]

そのため、初期青銅器時代にキクラデス諸島での文化断絶が発生したにもかかわらず、クレタ島ではその傾向は見られず、中期青銅器時代に至ると宮殿が築かれるようになった。この青銅器時代の文化推移についてクレタ島ではエーゲ海で見られる初期、中期、後期と並行した形で前宮殿時代、古宮殿(第1宮殿)時代、新宮殿(第2宮殿)時代、諸宮殿崩壊後(最終宮殿、もしくはクレタのミケーネ)時代という区分が用いられることが多い[5]。なお、各時代は土器の様式の変化に伴い、右の表のように細分化されている。

ミノア文化の盛衰については研究者のあいだでも議論が続いており、高編年を取る者、低編年を取る者の間で100年ほどの差が出ている。ミノア文化について明らかにするには線文字Aの解読、宮殿から得られる情報の整理、宮殿周囲の都市やヴィラ、聖域なども考慮して研究することが必要であるとされており、研究が続いている[6]
前宮殿時代
土器様式 ヴァシリキ様式の土器

この細分化された編年で前宮殿時代に属するEMI、EMII、EMIII(初期青銅器時代)、MMIA(中期青銅器時代初期)のにおいて、EMIはピュルゴス土器と呼ばれる部分的に磨かれた装飾が見られる灰黒色の土器、または水差しが発見されることの多い白色に赤線が描かれたアイオス・オヌフリオス土器が代表となる[5]

EMIIはさらにAとBに細分化されており、Aの方ではクウマサ土器と呼ばれるアイオス・オヌフリオス土器が発展した彩文土器や刻文が彫られた灰色土器が見られる。それに対してBではヴァシリキ土器が多く見られる。このヴァシリキ土器はクレタ東部に多く分布しており、器の外面が磨かれ黒や赤の光沢がある斑が見られるのが特徴である[5]

EMIIIでは黒地に白で文様が描かれているが、この特徴はMMIAにも受け継がれており、MMIAでは赤色がこれに加わっている[7]
特徴


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前宮殿時代の代表的遺跡としてミルトスのフルヌウ・コリフィ遺跡が上げられるが、この遺跡はEMIIに所属する。この遺跡はEMII末期に焼壊した後、定住者が現れなかったために当時の様相を残している[8]


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