ドイツ進歩党
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プロイセン王国政党
ドイツ帝国政党ドイツ進歩党
Deutsche Fortschrittspartei
成立年月日1861年6月6日
解散年月日1884年3月5日
解散理由自由主義連合(ドイツ語版)と合併して新党結成
後継政党ドイツ自由思想家党
政治的思想・立場自由主義左派[1]
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ドイツ進歩党(ドイツ語: Deutsche Fortschrittspartei、略称DFP)は、かつて存在したプロイセン及びドイツの政党。1861年プロイセン衆議院における自由主義左派政党として結党。首相ビスマルクの軍制改革や無予算統治に対して憲法闘争(ドイツ語版)を展開して抵抗したが、1866年の事後承認法(ドイツ語版)可決によって敗北。ドイツ統一後もビスマルクに批判的な自由主義左派政党として続いたが、1884年には自由主義連合(ドイツ語版)と合同してドイツ自由思想家党に再編された。
目次

1 党史

1.1 創設

1.2 プロイセン衆議院第一党に

1.3 軍制改革への抵抗

1.4 憲法闘争

1.5 進歩党分裂

1.6 ドイツ統一後


2 進歩党の構成

3 選挙結果

3.1 プロイセン衆議院

3.2 帝国議会 (北ドイツ連邦)

3.3 帝国議会 (ドイツ帝国)


4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典


5 参考文献

党史
創設 マックス・フォン・フォルケンベック(ドイツ語版)

1861年2月のプロイセン衆議院における上奏文審議の際、ドイツ問題の扱いに不満を抱いたマックス・フォン・フォルケンベック(ドイツ語版)ら自由主義左派議員たちは、ゲオルク・フォン・フィンケ(ドイツ語版)男爵の親政府的指導に反発し、旧派自由主義(ドイツ語版)の多数派だったフィンケ派から離脱して「議会連合」別名「青年=リトアニア派(Jung-Litauen)」と呼ばれる勢力を形成するようになった[2] ヘルマン・シュルツェ=デーリチュ

その後、協同組合運動の指導者ヘルマン・シュルツェ=デーリチュらの参加を得た「青年=リトアニア派」は、1848年革命時の旧民主主義残存分子と結合し、プロイセン議会が立法期を終えた1861年6月に「ドイツ進歩党」を結成し、来たるべき衆議院総選挙に備えた[2]。進歩党は選挙綱領としてプロイセンが掌握するドイツ中央権力やドイツ国民議会によるドイツ統一、貴族院改革、大臣責任制(議院内閣制)の確立、市民的自治行政の確立、教会による学校監督の廃止、市民的なラントヴェーアの地位と2年兵役制の維持などを掲げた。それは当時の自由主義者の宿願をほぼ網羅したものであり、人々を引き付ける内容だった[2]
プロイセン衆議院第一党に

1861年11月19日の第一次選挙、12月6日の第二次選挙の結果、衆議院の構成は進歩党109議席、旧派自由主義95議席、中央左派(Linkes zentrum)52議席、カトリック派54議席、ポーランド派23議席、保守党(ドイツ語版)15議席という結果になり、衆議院の重心は著しく左翼に傾いた[3]

旧派自由主義や中央左派は政府に不信感を持ちながらも政府との妥協を目指したのに対し、進歩党は非妥協的であり、1858年以来国政を指導している自由主義保守派から構成される「新時代(ドイツ語版)」内閣が掲げていた公約を彼らが理解している意味で実施するよう要求した。すなわち自由主義的法治国家の樹立、立憲政治の確立、小ドイツ主義に基づくドイツ連邦改革である[4]。「新時代」内閣は、一方においては陸相アルブレヒト・フォン・ローンや軍事内局局長エドヴィン・フォン・マントイフェルら政府内反動派によって、他方では進歩党など議会反政府派によって睨まれて身動きが取れなくなった[2]
軍制改革への抵抗

進歩党は1862年3月に軍事費を含めた予算の公表を求める決議案を衆議院に可決させた。これは国王ヴィルヘルム1世や軍部が推し進めようとしていた軍制改革[注釈 1]を牽制するものだった。反発した国王は衆議院を解散するとともに新時代内閣を更迭し、反自由主義内閣を創設した。しかし1862年5月の解散総選挙の結果は政府にとってさらに壊滅的だった。保守党の議席は11議席になり、政府に協力的な態度をとった旧派自由主義とカトリック派も大きく議席を落とす一方、進歩党が135議席、中央左派が96議席を獲得して躍進した[7] カール・トヴェステン(ドイツ語版)

1862年9月11日から18日のプロイセン衆議院は軍制改革を盛り込んだ予算案を拒否する態度をとり紛糾した。進歩党のカール・トヴェステン(ドイツ語版)ら一部議員が妥協案[注釈 2]を提出したが、国王はこれを統帥権の干犯と看做して応じず、無予算統治で軍制改革を断行する決意を固めた。この国王の非妥協的な態度に進歩党はじめ衆議院各会派は憤慨して妥協案は否決された[9]

軍部にはマントイフェルを中心に衆議院に対するクーデタを求める声もあったが、国王には妥協する意志もクーデタを起こす意志もなく、9月22日に無予算統治断行の覚悟があるオットー・フォン・ビスマルクを首相に任命した。ビスマルクは1862年10月にも空隙説(ドイツ語版)[注釈 3]というプロイセン憲法学説に基づいて、議会の承認を得ていない予算に基づいて国政を執行するという「無予算統治」を開始した。進歩党はじめ自由主義派は無予算統治を憲法違反として批判し憲法闘争(ドイツ語版)を開始した[10]
憲法闘争

ビスマルクの無予算統治開始により軍制改革争議は憲法闘争に転化された。進歩党は無予算統治を「外形的立憲主義であり、まさしく絶対主義」と批判し、「衆議院は正当防衛を行う状況にある」と主張。またビスマルクのごとき憲法無視を行う首相の責任を追及する手段がないことを憲法典の唯一の欠陥と主張し、1863年4月22日に改めて大臣責任制を定める法案を議会に提出した。同法案は衆議院で圧倒的多数で可決されたが、国王にもビスマルクにもその意思はなかったから政府と貴族院に対する牽制以上の意味はなかった(プロイセン憲法上立法は衆議院、貴族院、国王の一致が必要)[11]

ビスマルクは進歩党に対抗すべく、自由主義ジャーナリズムを弾圧したり[12]、進歩党の力の源になっている三級選挙制度(ドイツ語版)の廃止を念頭に普通選挙を主張する社会主義者ラッサールに接近したりしたが[13]、いずれも進歩党に対する決定打とはならなかった。

1864年シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争については進歩党もドイツ・ナショナリズム運動として支持した[14]


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